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​​#23「標本 ―オオムラサキ―」

(♂2:♀0:不問0)上演時間30~40

※こちらの作品は#22「標本 ―アオスジアゲハ―」の比率変更版です。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

賢治

【塩野賢治(しおのけんじ)】(男性)

高校一年生。地味で愚図で冴えない少年。尚嗣が顧問を務める化学部の部員。

尚嗣

【井出尚嗣(いでなおつぐ)】(男性)

高校教師。生徒からの人気も高い、見た目の良い男。化学部の顧問。

​――――――――――――――――――――――――――――――――――――

―プロローグ
 

賢治:――俺を、貴方の「蝶」にしてください。
 
【間】
 
―高校の屋上

 

(尚嗣が地面に座ってタバコを吸っている)
 

賢治:井出先生。
 

尚嗣:塩野か。 
 

賢治:はい。
 

尚嗣:あーあ、煙草バレちまったな。
 

賢治:あの、俺は全然。言いふらすつもりとか、ありませんから。
 

尚嗣:そうか、なら遠慮なく吸わせてもらうわ。
 

賢治:あの。隣、いいですか?
 

尚嗣:あいよ。
 

(賢治、尚嗣の隣に座る)

 

賢治:先生、ここ好きですよね。
 

尚嗣:屋上?
 

賢治:はい。いつも休憩する時は屋上に行っているみたいだったので。
 

尚嗣:そこまでバレてたか。隠れて煙草吸えるところなんて、ここくらいしかないからな。まああとは……やっぱり好きだから、になるのかね。
 

賢治:そうですか。
 

尚嗣:で?塩野はなんでここに来た。生徒は立ち入り禁止だろうが。
 

賢治:……先生に、用があって。
 

尚嗣:なんだ、質問か? 
 

賢治:いえ、あの……俺、見たんです。こないだの昼休み、ここで。
 

(少しの間)

尚嗣:……何を?
 

賢治:先生が、蝶を……
 

尚嗣:蝶を?
 

賢治:その……に、握りつぶしているのを。
 

尚嗣:……
 

賢治:……
 

尚嗣:それで?
 

賢治:そ、それで、って?
 

尚嗣:だったら何だ?
 

賢治:えっと……その、先生、笑ってましたよね?蝶を握りつぶしながら。
 

尚嗣:だから?
 

賢治:だから、なんでそんなこと、って……
 

尚嗣:そんなこと、聞いてどうする?皆に言いふらすか?「井出先生がこんな残酷なことをしていましたー」って。
 

賢治:いえ、別にそういうつもりじゃ
 

尚嗣:ならどうして、「見た」なんてわざわざ俺に告げに来た?ああ、俺の秘密をネタに、脅しにでも来たのか?
 

賢治:違います。
 

尚嗣:じゃあ何故?
 

賢治:否定、しないんですね。
 

尚嗣:だってお前、見たんだろ?
 

賢治:……はい。 あの、本当にどうして、そんなことをしたんですか?
 

尚嗣:別に。なんとなくだよ、なんとなく。
 

賢治:なんとなく……。
 

尚嗣:ひらひらとのんきに目の前を飛んでたから、潰してやりたくなった。それだけだ。
 

賢治:何か嫌なことでもあったんですか?
 

尚嗣:いいや、何も。たまに発作みたいにそういう衝動に駆られるんだよ。
 

賢治:そういう、衝動……
 

尚嗣:何かを徹底的にいたぶって壊してしまいたくなる衝動にな。
 

賢治:……そうですか。
 

尚嗣:おい。
 

賢治:はい。
 

尚嗣:本当は、何が目的なんだ?
 

賢治:目的?
 

尚嗣:そうでなきゃ不自然すぎるんだよ、お前の行動は。
 

賢治:……俺を。
 

尚嗣:……
 

賢治:俺を、貴方の「蝶」にしてください。
 

尚嗣:は?
 

賢治:先生がその衝動に駆られた時は、代わりに俺をいたぶってください。
 

尚嗣:……塩野、お前マゾなの?
 

賢治:いいえ、自分をそうだと思ったことはありません。
 

尚嗣:ふぅん。
 

賢治:ただ、その時の先生に興味があって。
 

尚嗣:あっそ。でもさ、それって俺に何かメリットある?
 

賢治:え、だから「蝶」の代わりに……
 

尚嗣:「いたぶってくれ」と懇願されていたぶるんじゃ、ただのボランティアだろうが。そんなんじゃ俺は一ミリも満たされない。それは、俺がしたいことじゃないからな。
 

賢治:……
 

尚嗣:それに申し訳ないが、お前は地味だしダサいし、全然そそられない。
 

賢治:そんなこと……分かっています。
 

尚嗣:だとしたらなおさら、好みじゃない相手の頼みを聞く義理はないな。
 

賢治:……それならやっぱり、「口止め料」ということでどうでしょう?
 

尚嗣:あ?
 

賢治:顔も良くて授業も面白い、そんな人気者の先生のその行為は、結構なスキャンダルになると思います。ましてや進学校であることを謳っているこの学校では大問題ですよね、きっと。
 

(尚嗣、賢治の頬を打つ)
 

賢治:……っ!
 

尚嗣:お前、最低だな。結局自分の欲の為に脅すのか。
 

(賢治、ほうと恍惚のため息をつく)
 

尚嗣:……
 

賢治:それで、いいです。
 

(尚嗣、再び賢治を打つ)
 

賢治:……っ
 

尚嗣:おい、こっちを見ろ。
 

(賢治は顔を上げ、ゆっくりと尚嗣の目を見る)
(少しの間)


尚嗣:……分かった。これからはお前にする。
 

賢治:あ……
 

尚嗣:勘違いするなよ。単に気が変わっただけだ。飽きたらさっさと捨てる。
 

賢治:はい。
 

尚嗣:あと、自分が「蝶」だなんて思わないことだな。お前はただの、誰も名前を知らないような薄汚い「虫けら」だ。
 

賢治:それで、じゅうぶんです。
 

尚嗣:……そうかよ。

 

(尚嗣立ち上がり、いつもの笑顔を見せる)

 

尚嗣:さ、下校時間だ。鍵閉めるぞ。気を付けて帰れよ。
 

賢治:……はい。
 
【間】
 
―数日後/屋上

 

尚嗣:遅い。
 

賢治:すみません。
 

尚嗣:返却したノートのメモ、見たんだろう?五分以内に来いって書いたよな、俺。
 

賢治:あの、川村先生につかまってしまって
 

(尚嗣、賢治の頬を打つ)
 

賢治:……っ
 

尚嗣:虫けらが生意気に口答えなんてするんじゃねえよ。
 

賢治:……すみません。
 

尚嗣:なあ。
 

賢治:はい。
 

(尚嗣、後ろ手に隠していたものを賢治に見せる)

尚嗣:これ、なんだと思う?
 

賢治:ガムテープ、ですか?
 

(尚嗣、にやりと笑う)

尚嗣:正解。それじゃあ次の問題だ。俺はどうして、こんなものを持ってきたんだと思う?
 

賢治:……分かりません。
 

尚嗣:正解は、醜い虫けらの口をふさぐため、だ。
 

賢治:……
 

尚嗣:ほら顔、上げろって。
 

賢治:……はい。
 

(尚嗣、賢治の口にガムテープを貼り付ける)
 

賢治:ん……む……
 

尚嗣:これで良し。
 

賢治:……
 

尚嗣:蝶はな、美しい羽根を持つから蝶であることを許されるんだ。羽根を失ったり、傷つけたりした蝶は、例え生物学上は「蝶」であったとしても、誰も「蝶」だとは見なさない。ただの「虫けら」に成り下がるのさ。
 

賢治:……?
 

尚嗣:どんな生き物だってそうだ。誰かにとって何かしらの意味があるから、その存在を許される。捕食するもの、捕食されるもの、美しいもの、命の循環になんらかの利益をもたらすもの。
 

賢治:……
 

尚嗣:生物である限り、大抵はどこかしらにカテゴライズされる。でもたまぁにいるんだよな。「何のために生まれてきたのかさえ分からない存在」ってのが。……なあ。この意味が分かるか?
 

(賢治、小さく呻く)
 

尚嗣:「虫けら」の声なんか、意味がないから必要ないってことだ。

 

(尚嗣、賢治を打つ)
 

賢治:んんっ……!
 

尚嗣:俺は蝶が嫌いだ。何も知らない顔をしてひらひらと、ただ美しく飛んでるのが、腹立たしくて仕方ない。無意味に蠢く虫けらと同じくらい、嫌いなんだ。

 

(尚嗣、もう一度賢治を打つ)


賢治:んんんん……(「先生」と呼ぼうとしている)
 

尚嗣:ん?
 

賢治:んん……
 

尚嗣:……むかつくんだよ、お前。蝶とは違う意味で、すげえむかつく。

 

(尚嗣、さらに賢治を打つ)
 

賢治:ん……
 

尚嗣:「虫けら」のくせに「蝶」になろうとする、その目が。(打つ)
 

賢治:ん……
 

尚嗣:なれるわけがないのに。(打つ)
 

尚嗣:本当にむかつく。(打つ)
 

(何度も賢治を打つ尚嗣。そのたびに呻く賢治)
(少しの間)

 

尚嗣:はぁ……はぁ……
 

(賢治は鼻で荒い呼吸を繰り返している)
 

尚嗣:飽きた。俺、もう戻るわ。ガムテープ、剥がしていいぞ。
 

(賢治、ガムテープを剥がして咳き込む)

 

尚嗣:苦しかったか?
 

賢治:……ええ。
 

尚嗣:やっぱむかつくわ、お前。
 

賢治:え?
 

尚嗣:一人で満たされた顔してんじゃねえよ。気持ち悪ぃ。

 

(尚嗣、また賢治を打つ)
 

賢治:つっ……!あの、先生は……

 

(賢治、何かを言いかけてはっとする)

 

賢治:あ……
 

尚嗣:何だよ。もう喋っていいぞ。遊びは終わりだ。
 

賢治:先生は、満たされませんでしたか?
 

尚嗣:……さあな。
 

賢治:そう、ですか。
 

尚嗣:じゃあな。……ああ、川村先生につかまったって言ってたけど、何かあったのか?
 

賢治:えっと……化学部の部費の件で、井出先生を探してる、って……
 

尚嗣:最悪だな。 
 

賢治:あ、でも俺で分かる話だったので、もう終わってます。 
 

尚嗣:そっか、お前も化学部だもんな。 ……サンキュ。

【間】
 
―さらに数日後/屋上

 

賢治:先生。
 

尚嗣:早かったな。
 

賢治:何度もお待たせするのは、悪いと思って。
 

尚嗣:ふうん……

 

(尚嗣、そのまま賢治の胸倉を掴み、フェンスに押し付ける)
 

賢治:つっ……!
 

尚嗣:ここのフェンスな、前から少し建付けが悪いんだわ。ほら、ちょっと体重かけるだけでぐらぐらするだろ?
 

賢治:……
 

尚嗣:このまま落ちて死んじまったら、って考えたら、どうだ?
 

賢治:怖くないと言ったら、嘘になります。
 

(尚嗣、くっと笑う)

 

尚嗣:下校間際のこんな時間に落ちたら、きっと何人かは巻き添えになるな。
 

賢治:……先生も、落ちてしまいますよ。
 

尚嗣:そうかもな。
 

賢治:先生は、死にたいんですか?
 

(尚嗣、賢治を打つ)
 

尚嗣:なんで俺が死にたがらなきゃならないんだよ。
 

賢治:すみません。
 

尚嗣:気さくで楽しくて、授業も分かりやすいって評判の教師だろ、俺。なんでその俺が、死にたがらなきゃいけない。


賢治:……
 

(尚嗣、小さく舌打ちをして賢治から離れる)

 

尚嗣:つまんねぇの。
 

賢治:今日はもう、おしまいですか?
 

尚嗣:そんなわけないだろう?俺はまだ、お前を潰していない。
 

賢治:……潰したいと、思ってくれているんですか?
 

尚嗣:は?
 

賢治:俺は「蝶」ではないのでしょう?なら何故
 

(尚嗣、賢治の言葉の終わりを待たずに賢治を押し倒し、その首を絞める)

尚嗣:口答えを許したつもりはねえぞ。
 

賢治:せ、んせ……くるし……
 

尚嗣:なあ塩野。お前って、俺のことが好きなの?
 

賢治:分かりません……
 

尚嗣:は?
 

賢治:憧れては……いました……。蝶を潰した時の笑顔にも、強烈に……惹かれました……。先生のその笑顔を、誰も知らないその笑顔を……独り占めしたいと思いました……。
 

尚嗣:なんだよ、やっぱり好きなんじゃないか。
 

賢治:……これは、恋なんでしょうか?
 

尚嗣:はっ、お前何言って
 

賢治:潰して欲しいと、思っています。今でも。でも……こんな邪な想いを恋だなんて、俺は呼べません……。
 

(尚嗣、賢治の首を一層強く締め、賢治は一層苦しそうに顔をゆがめる)
 

尚嗣:このままだとお前は死ぬな。
 

賢治:そう……ですね……
 

尚嗣:本望だろう?俺に潰されて死ぬのなら。
 

賢治:ええ……。先生に潰されたその瞬間、俺は「蝶」になれるんですから。
 

尚嗣:虫けらが蝶になんて、なれるわけがねえんだよ。お前はただの虫けらとして死ぬんだ。
 

賢治:……悲しいですね。
 

(尚嗣、微笑む)

 

尚嗣:残念だったな。
 

(尚嗣、そのままゆっくりと賢治に口づける)
(少しの間)


賢治:ああそっか……。俺、分かりました。
 

尚嗣:何を?
 

賢治:俺は、確かに「蝶」にもなりたかったけど……本当は……
 

尚嗣:……
 

賢治:本当は、単純に、恋がしたかったんです。……せんせ、い。貴方、と。
 

尚嗣:っ!
 

賢治:虫けらが……蝶になれるわけも、蝶と恋に落ちることができるわけも、ない、のに……
 

(尚嗣、弾かれたように賢治から離れる)
(賢治、激しく咳き込む)

 

賢治:せん、せ……?
 

尚嗣:俺が蝶、だって?
 

賢治:俺にとっては、そうでした。愚図でのろまで、誰の目にも留まらない虫けらの俺の名前を、先生はすぐに覚えて、いつも笑顔で呼んでくれました。いつだって快活で、自由で、ひらひらと優雅に飛ぶ蝶のよう、でした。
 

尚嗣:俺が……蝶?
 

賢治:だから、なんとかして先生の視界を独り占めしたかった。だから先生になら、叩かれても首を絞められても、満足できた。
 

尚嗣:……やめろ。
 

賢治:すみません。
 

尚嗣:俺が蝶なら、やっぱり誰かが俺を握り潰すだろうが。俺は、もうそんなのはごめんだ。俺は……!
 

賢治:先生。貴方は、一体何を潰していたんですか?
 

尚嗣:……
 

賢治:先生。
 

尚嗣:黙れ。
 

賢治:なんで、泣いているんですか?
 

尚嗣:……っ!?
 

(少しの間)
 

尚嗣:……帰れ。
 

賢治:でも
 

(尚嗣、賢治を打つ)

 

尚嗣:これで満足か?俺は絶対にお前と恋に落ちたりはしない。落ちたらあとは、踏みつぶされるだけだ。
 

賢治:先生。
 

(尚嗣、再び賢治を打つ)
 

尚嗣:……やっぱり、虫けらは虫けらなんだよ。その身に余る願望を持った虫けらなんて、気持ち悪いだけで、無意味だ。
 

賢治:……
 

尚嗣:今すぐ消えろ。
 

賢治:先生。
 

尚嗣:消えろ。
 

賢治:……失礼します。
 
【間】
 
―数週間後/屋上

 

(最初の日と同じように、尚嗣が地面に座って煙草を吸っている)
 

賢治:やっぱりここにいたんですね。
 

(尚嗣、ゆっくりと煙を吐く)
 

賢治:隣、いいですか?
 

尚嗣:……好きにしろ。
 

賢治:失礼します。
 

(賢治、隣に座る)

 

尚嗣:……
 

賢治:……
 

(尚嗣、煙草を消す)

尚嗣:……今日は呼んでないぞ。
 

賢治:というより、あれからずっと呼ばなかったじゃないですか。
 

尚嗣:当り前だ。俺達の邪な関係は終わったんだからな。
 

賢治:はい。だから俺は、ただ外の空気を吸いに来ただけです。
 

尚嗣:そうかよ。
 

賢治:辞めちゃうんですね、学校。
 

尚嗣:別にどうしてもこの学校で働きたかったわけじゃないからな。強いて言えば、この屋上が好きだったくらいで。
 

賢治:あの日先生を追いかけて初めて屋上に出ましたけど、いいですよね、ここ。
 

賢治:周りになんの遮蔽物もないから、空がパノラマに見えて。
 

尚嗣:飛んで行けそうだよな。どこまでも。
 

賢治:……飛んでいきたかったんですか?
 

尚嗣:……飛んでいけると、思っていたよ。
 

(少しの間)
(尚嗣が何かに気付く)

 

尚嗣:それ、どうした?
 

賢治:え?
 

尚嗣:シャツの袖口。染みがついてるぞ。
 

賢治:あ……本当だ。
 

尚嗣:血みたいだな。嫌な色だ。
 

賢治:血ですよ、これ。
 

尚嗣:え?
 

賢治:……俺だけが、知らなかったんですね。先生以外の誰ともろくに会話なんてしたことがなかったから、俺だけが知らなかった。そんな噂話。
 

尚嗣:まさか。
 

賢治:川村先生と付き合っていたんでしょう?先生。
 

尚嗣:……
 

賢治:でも川村先生は、教頭先生のお嬢さんと婚約をした。
 

尚嗣:塩野。
 

賢治:俺、生まれて初めて人を殴りました。
 

尚嗣:お前……なんてことを。そんなことをしたら
 

賢治:退学になるでしょうね。でもその時は、必死に勉強してこの学校に入ったこととか、そういうのを全部ぶち壊しても構わない、って思ったんです。
 

尚嗣:……
 

賢治:先生の抱えていた衝動とは、きっと違うんでしょうけど。それでも初めての衝動でした。
 

尚嗣:俺のそれより、よっぽど健全だよ。
 

(少しの間)

賢治:……聞いても、いいですか?

尚嗣:……「蝶」のようだと言われたよ。あいつにも。
 

賢治:あ……
 

尚嗣:でも俺は、結局標本の蝶でしかなかった。捕まえて殺して、飾って楽しんで、時にちょっと人に自慢できる程度のものでしか、なかったんだよ。
 

賢治:……
 

尚嗣:俺は、蝶になんかなりたくなかったよ。
 

賢治:ごめんなさい。
 

尚嗣:俺は生きてる。だから標本になんかなれない。それなのに、いつの間にかしっかりと虫ピンで留められて、身動きが取れなくなってた。
 

賢治:もう、いいです。


尚嗣:最後まで聞けよ。あいつを殴ってしまったお前への、俺なりの責任の取り方なんだから。
 

賢治:そんなことは
 

尚嗣:分かってたんだ。羽根を引きちぎれば逃げ出せるってのは。でもそうしたら、俺はただの虫けらだ。羽根を失った蝶に、なんの意味がある?
 

賢治:だから、「蝶」を潰したんですか?
 

尚嗣:目の前を、パノラマの大空をバックに飛んでいる蝶が、あいつの婚約者に見えた。俺には――羽根を失う勇気も覚悟もない俺には、現実をどうすることもできない。だから蝶を潰してやった。久しぶりに気持ちいいと思えたよ。久しぶりに、心から笑えた。
 

賢治:先生。もうひとつ、聞いてもいいですか?
 

尚嗣:なんだよ。
 

賢治:それなら何故、俺を「蝶」の代わりにしたんですか?
 

尚嗣:……似ていたから。
 

賢治:誰に。
 

尚嗣:俺に。
 

賢治:先生に?
 

尚嗣:何もできないくせに、いっちょ前に自分の欲望にだけひどく忠実で……ああ、あと。
 

賢治:あと?
 

尚嗣:俺が叩いた時の顔。
 

賢治:顔?
 

尚嗣:「この相手になら何をされても快感にできる」って顔。それが一番そっくりだった。あいつと一緒にいた時の俺と、同じ顔だった。それが本当に不愉快で、仕方なかった。
 

賢治:……やっぱり死にたかったんじゃないですか、先生。
 

尚嗣:死にたかったならとっくに死んでる。俺は、ただの臆病者だ。……愚かな、虫けらなんだよ。
 

(賢治、大きなため息をつく)
 

尚嗣:好きなだけ笑えよ。
 

賢治:先生、俺の顔を見てください。
 

尚嗣:……。
 

賢治:これが、貴方を笑いたい顔に見えますか?
 

尚嗣:知らねえよ、気持ち悪い。
 

賢治:俺、やっぱり先生と恋がしたいです。
 

尚嗣:今更何言ってんだ。
 

(賢治、幸せそうに微笑む)

 

賢治:俺……ああなんて言ったらいいんだろう。その、今、すごく興奮しているんです。
 

尚嗣:はあ?
 

賢治:やっと俺は、「蝶」になれた気がします。
 

尚嗣:どういうことだ。
 

賢治:だって、先生は俺に自分を見ていたんでしょう?先生は、やっぱり俺にとっては蝶で……、だったら、だから、俺も「蝶」じゃないですか。
 

尚嗣:……
 

賢治:「この人の視界を独り占めできるなら、何をされてもいい」って、先生が恋人に思っていたのなら、俺だってあなたと恋ができるはずです。
 

(尚嗣、その場から離れようとするが、賢治がその腕を掴み引き止める)
 

賢治:逃げないでください。
 

尚嗣:手を、放せ。
 

(賢治、そのまま尚嗣に抱きつく)
 

尚嗣:……やめろ。
 

賢治:放しません。放すわけがないでしょう?やっと俺は「蝶」になれて、先生と対等になれたんです。もう虫けらじゃない。先生の命令は、聞きません。
 

尚嗣:放せ。
 

賢治:放しません。
 

尚嗣:所詮お前も俺も標本の蝶だ。そんな歪なもの同士で、何を始められる?
 

賢治:俺の羽根を、先生にあげます。
 

尚嗣:は?
 

賢治:俺にも羽根があるのなら、あげます。だから安心して、先生は今の羽根を引きちぎってください。
 

尚嗣:塩野、お前何言ってるんだ。お前は今、「蝶」になれた、って喜んでいたばかりだろうが。
 

賢治:はい、最高の気分です。だって「蝶」なら羽根がある。先生にあげることができる。
 

尚嗣:そうしたら、お前はまた虫けらに逆戻りだぞ。
 

賢治:でも、俺の羽根は先生の背中にある。先生は優しい人だから、きっとそれを忘れられない。だから先生の視界には、いつだって俺がいる。きっと、ずっと。
 

尚嗣:……何を
 

賢治:だから今度は、先生の身代わりとしての俺ではなく、目障りな俺自身をいたぶればいい。思う存分叩いて、踏んで、蹴り飛ばして、首を締めればいい。
 

尚嗣:いかれてる。
 

賢治:でも、やっぱり先生は逃げない。
 

(尚嗣、賢治の頬を打つ)
 

賢治:そう、それでいいんです。
 

尚嗣:……お前が、お前が俺を「蝶」だなんて言うのが、悪いんだ。
 

賢治:好きなだけ、好きなように生きて、呼吸をしてください。そしてひらひらと、空に飛んでいけばいい。そうしてたまに、その背中に生えた俺の羽根に苛立ちを覚えたら、衝動に駆られたら、また自由に俺をいたぶればいい。
 

(尚嗣、震えながら息を吐く) 
 

賢治:愛しています。
 

尚嗣:虫けらが何を
 

賢治:俺は「蝶」です。羽根を自らもいだだけの、「蝶」です。
 

尚嗣:なら、虫けらは俺の方か。
 

賢治:いいえ。言ったじゃないですか。俺にとって貴方は、永遠に「蝶」です。
 

尚嗣:くっ……ははは……
 

賢治:愛しています。
 

(尚嗣、賢治を打つ)


賢治:……先生だけが、俺が「蝶」であることを知っていればいいんです。
 

(尚嗣、もう一度賢治を打つ)
 

賢治:愛しています。尚嗣さん。――俺を、貴方だけの、永遠の「蝶」にしてください。

 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【幕】

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