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​​#22「標本 ―アオスジアゲハ―」

(♂1:♀1:不問0)上演時間30~40


――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

拓磨

【小林拓磨(こばやしたくま)】(男性)

会社員。地味で愚図で冴えない男。優紀の後輩。 

 

優紀

【桐原優紀(きりはらゆうき)】(女性)

会社員。仕事もでき、人望もそれなりにある美しい女。拓磨の先輩。 

​――――――――――――――――――――――――――――――――――――

―プロローグ
 

拓磨:――俺を、貴女の「蝶」にしてください。
 
【間】
 
―会社の屋上

(優紀がフェンスの外を眺めながらタバコを吸っている)
 

拓磨:桐原さん。
 

優紀:あら、小林君も休憩?
 

拓磨:はい。
 

優紀:お疲れ。ごめんねー、ちょっと一服してるけど、煙平気?
 

拓磨:俺は全然。大丈夫です。
 

優紀:そっか、なら遠慮なく吸ってるね。
 

拓磨:あの。隣、いいですか?
 

優紀:どうぞ。
 

(拓磨、優紀の隣にやってくる)

拓磨:桐原さん、ここ好きですよね。
 

優紀:屋上?
 

拓磨:はい。いつも休憩する時は、屋上に行っているみたいだったので。

 

優紀:そうねえ……。理由なんて特に考えたことはなかったけど、まあ好きだから、かな。
 

拓磨:そうですか。
 

優紀:で?小林君はなんで今日に限って屋上に?
 

拓磨:……桐原さんに、用があって。
 

優紀:やだ、私何かやらかした?
 

拓磨:いえ、あの……俺、見たんです。こないだの昼休み、ここで。
 

​(少しの間)

優紀:……何を?
 

拓磨:桐原さんが、蝶を……
 

優紀:蝶を?
 

拓磨:その……に、握り潰しているのを。
 

優紀:……
 

拓磨:……
 

優紀:それで?
 

拓磨:そ、それで、って?
 

優紀:だったら何?
 

拓磨:えっと……その、桐原さん、笑ってましたよね?蝶を握り潰しながら。
 

優紀:だから?
 

拓磨:だから、なんでそんなこと、って……
 

優紀:聞いてどうするの?皆に言いふらす?「営業一課の桐原優紀は、実はこんなに残酷な女なんだぞ」って。
 

拓磨:いや、別にそういうつもりじゃ
 

優紀:それならどうして、「見た」なんてわざわざ私に言いに来たの?私の秘密をネタに、脅しにでも来たのかな?
 

拓磨:違います。
 

優紀:じゃあなあに?
 

拓磨:否定、しないんですね。
 

優紀:だって見たんでしょ?
 

拓磨:……はい。 
 

(少しの間)

拓磨:あの、本当にどうして、そんなことをしたんですか?
 

優紀:別に。なんとなくよ、なんとなく。
 

拓磨:なんとなく……。
 

優紀:ひらひらとのんきに目の前を飛んでたから、捕まえて潰してやりたくなった。それだけ。
 

拓磨:何か嫌なことでもあったんですか?

優紀:ううん、何も。たまに発作みたいにそういう衝動に駆られるのよ。
 

拓磨:そういう、衝動……
 

優紀:何かを徹底的にいたぶって壊してしまいたくなる、そんな衝動。
 

拓磨:……そうですか。
 

(優紀、煙草を消す)

優紀:ねえ。
 

拓磨:はい。
 

優紀:本当に、何が目的なの?貴方。
 

拓磨:目的?
 

優紀:そうでなきゃ不自然すぎるんだもの、貴方の行動。
 

拓磨:……俺を。
 

優紀:……
 

拓磨:俺を、貴女の「蝶」にしてください。
 

優紀:は?
 

拓磨:桐原さんがその衝動に駆られた時は、代わりに俺をいたぶってください。
 

優紀:……小林君、貴方マゾなの?
 

拓磨:いいえ、自分をそうだと思ったことはありません。
 

優紀:ふぅん。
 

拓磨:ただ、その時の桐原さんに興味があって。
 

優紀:でもさ、それって私に何かメリットある?
 

拓磨:え、だから「蝶」の代わりに
 

優紀:「いたぶってくれ」と懇願されていたぶるなんて、ただのボランティアじゃない。そんなんじゃ私は一ミリも満たされない。だってそれは、私のしたいことじゃないんだもの。


拓磨:……
 

優紀:それに申し訳ないけど、小林君って地味だしダサいし、全然私の好みじゃない。
 

拓磨:そんなこと、分かっています。
 

優紀:だとしたらなおさらよ。好みじゃない相手のお願いを聞く義理なんてないわ。
 

拓磨:……それならやっぱり、「口止め料」ということでどうでしょう?
 

優紀:なんですって?
 

拓磨:美人で仕事も出来て人気者な桐原さんのその行為は、結構なスキャンダルになると思います。ましてやペット用品を扱ううちの会社では大問題ですよね、きっと。
 

(優紀、拓磨の頬を打つ)
 

拓磨:……っ!
 

優紀:あんた最低ね。
 

(拓磨、ほうと恍惚のため息をつく)
 

優紀:……
 

拓磨:それで、いいです。
 

(優紀、もう一度拓磨を打つ)
 

拓磨:……っ!
 

優紀:こっちを見て。
 

(拓磨、ゆっくりと顔を上げ、優紀の目を見る)
(少しの間)

 

優紀:……分かったわ。これからは貴方にする。
 

拓磨:あ……
 

優紀:勘違いしないで。単に気が変わっただけよ。飽きたらさっさと捨てるわ。
 

拓磨:はい。
 

優紀:あと、自分が「蝶」だなんて思わないことね。貴方はただの、誰も名前を知らないような薄汚い「虫けら」よ。
 

拓磨:それでじゅうぶんです。
 

(優紀、立ち上がる)

優紀:……戻るわ。いつまでも二人で戻らなかったら、変な勘繰りされちゃう。
 

(優紀は深呼吸をすると、いつも通りの笑顔を作る)

 

優紀:それじゃあ、この後も頑張ろうね、小林君。
 

拓磨:はい。
 
【間】
 

―数日後/屋上
 

優紀:遅い。
 

拓磨:すみません。
 

優紀:メモを見たでしょう?五分以内に来いって書いたわよね、私。
 

拓磨:あの、課長につかまってしまって
 

(優紀、拓磨の頬を打つ)
 

拓磨:……っ
 

優紀:虫けらが口答えするなんて、生意気よ。
 

拓磨:……すみません。
 

優紀:ねえ。
 

拓磨:はい。
 

(優紀、背中の後ろに隠していた物を拓磨に見せる)

優紀:これ、なんだと思う?
 

拓磨:ガムテープ、ですか?
 

(優紀、くすりと笑う)

優紀:正解。それじゃあ第二問。私はどうして、こんなものを持ってきたんだと思う?
 

拓磨:……分かりません。
 

優紀:正解はね、「醜い虫けらの口をふさぐため」。
 

拓磨:……
 

優紀:ほら早く、顔を上げなさいよ。
 

拓磨:……はい。
 

(優紀、拓磨の口にガムテープを貼り付ける)
 

拓磨:ん……む……
 

優紀:これで良し、っと。
 

拓磨:……
 

優紀:蝶はね、美しい羽根を持つから蝶であることを許されるの。羽根を失ったり傷つけたりした蝶は、例え生物学上「蝶」であったとしても、誰も「蝶」だとは見なさない。ただの「虫けら」になり下がるのよ。
 

拓磨:……?
 

優紀:どんな生き物だってそう。誰かにとって何かしらの意味があるから、その存在を許されるの。捕食するもの、捕食されるもの、美しいもの、命の循環になんらかの利益をもたらすもの。
 

拓磨:……
 

優紀:生き物である限り、大抵はどこかしらにカテゴライズされるの。でもたまぁにいるのよね。「何のために生まれてきたのかさえ分からない存在」って。……ねえ。この意味、分かる?
 

(拓磨、小さく呻く)
 

優紀:「虫けら」の声なんか、意味がないから必要ないってこと。

(優紀、拓磨を打つ)
 

拓磨:んんっ……!
 

優紀:私ね、蝶が嫌いなの。何も知らない顔をしてひらひらと、ただ美しく飛んでるのが、むかついて仕方なくて……無意味に蠢(うごめ)く虫けらと同じくらい、嫌い。

(優紀、もう一度拓磨を打つ)
 

拓磨:んんんん、ん……(「桐原さん」と呼ぼうとしている)
 

優紀:なに?
 

拓磨:んん……
 

優紀:……むかつくのよ、貴方。蝶とは違う意味で、すごくむかつく。

(優紀、さらに拓磨を打つ)
 

拓磨:ん……


優紀:「虫けら」のくせに「蝶」になろうとする、その目。(打つ)
 

拓磨:ん……
 

優紀:なれっこないのにね。ほんっと、むかつく。(打つ)


(優紀、何度も拓磨を打つ優紀。拓磨はそのたびに呻く)
(少しの間)

 

優紀:はぁ……はぁ……
 

(拓磨、必死で呼吸をしている)
 

優紀:飽きた。私、もう戻るわ。ガムテープ、剥がしていいわよ。
 

(拓磨、ガムテープを剥がして咳き込む)

優紀:苦しかった?
 

拓磨:……はい。
 

優紀:……やっぱりむかつくわ、貴方。
 

拓磨:へ?
 

優紀:一人で満たされた顔してんじゃないわよ。気持ち悪い。

 

(優紀、拓磨を打つ)
 

拓磨:っ……!あの、桐原さんは……

(拓磨、何かを言いかけてはっとする)

拓磨:あ……
 

優紀:何よ。もう喋って良いわよ。遊びは終わったんだから。
 

拓磨:桐原さんは、満たされませんでしたか?
 

優紀:……さあね。
 

拓磨:そう、ですか。
 

優紀:本当にもう戻るわ。ああそういえば、課長につかまったって言ってたけど、どうしたの?
 

拓磨:えっと……今朝出した発注について、桐原さんに聞きたいことがあったみたい、でした……。
 

優紀:最悪。 
 

拓磨:あ、でも俺で分かる話だったので、もう終わってます。
 

優紀:そう。助かったわ。……ありがとうね。
 
【間】
  
―さらに数日後/屋上

 

拓磨:桐原さん。
 

優紀:早かったじゃない。
 

拓磨:何度もお待たせするのは、悪いと思って。
 

優紀:ふうん……

(そのまま優紀は拓磨の胸倉を掴み、フェンスにその身体を押し付ける)
 

拓磨:つっ……!
 

優紀:このフェンスね、前から少し建付けが悪いの。ほら、ちょっと体重かけるだけでぐらぐらするでしょう?
 

拓磨:……
 

優紀:このまま落ちて死んでしまったらって考えたら、どう?
 

拓磨:怖くないと言ったら、嘘になります。
 

(優紀、くすくすと笑う)

 

優紀:終業直後のこんな時間に落ちたら、きっと何人かは巻き添えね。
 

拓磨:……桐原さんも、落ちてしまいますよ。
 

優紀:そうかもね。
 

拓磨:桐原さんは、死にたいんですか?
 

(優紀、拓磨を打つ)
 

優紀:なんで私が死にたがらなきゃいけないわけ?
 

拓磨:すみません。
 

優紀:誰からも好かれる「いい女」で、仕事もよくできるって評判でしょ、私。なんでその私が、死にたがらなきゃいけないのよ。 
 

拓磨:……
 

(少しの間)

(優紀は不意に拓磨から離れる)

優紀:……つまらないの。
 

拓磨:今日はもう、おしまいですか?
 

優紀:そんなわけないでしょう?私はまだ、貴方を潰していないもの。
 

拓磨:……潰したいと、思ってくれているんですか?
 

優紀:は?
 

拓磨:俺は「蝶」ではないのでしょう?なら何故
 

(優紀、拓磨の言葉の終わりを待たずに、その首を絞める)

優紀:口答えを許したつもりはないわ。
 

拓磨:き、りはらさ……くるし……
 

優紀:ねえ小林君。貴方、私のことが好きなの?
 

拓磨:分かりません……
 

優紀:は?
 

拓磨:憧れては……いました……。蝶を潰した時の笑顔にも、強烈に……惹かれました……。桐原さんの、その笑顔を、誰も知らないその笑顔を……独り占めしたいと思いました……。
 

優紀:なによ、やっぱり好きなんじゃない。
 

拓磨:……これは、恋なんでしょうか?
 

(優紀、鼻で笑う)

 

優紀:貴方何言って
 

拓磨:潰して欲しいと、思っています。今でも。でも……こんな邪な想いを恋なんて、俺は呼べません……。
 

(優紀、拓磨の首を一層強く締める/呻く拓磨)
 

優紀:このままだと貴方は死ぬわね。
 

拓磨:そう……ですね……
 

優紀:本望でしょう?私に潰されて死ぬのなら。
 

拓磨:ええ……貴女に潰されたその瞬間、俺は「蝶」になれるんですから。
 

優紀:虫けらが蝶になんて、なれるわけがないのよ。貴方はただの虫けらとして死ぬの。
 

拓磨:……悲しいですね。
 

優紀:残念だったわね。
 

(優紀、ゆっくりと拓磨に口づける)
(少しの間)

 

拓磨:ああそっか……。俺、分かりました。
 

優紀:何が?
 

拓磨:俺は、確かに「蝶」にもなりたかったけど……本当は……
 

優紀:……
 

拓磨:本当は、単純に恋がしたかったんです。……きりはら、さん。貴女、と。
 

優紀:!
 

拓磨:虫けらが……蝶になれるわけも、蝶と恋に落ちることができるわけも、ない、のに……
 

(優紀、弾かれたように拓磨から離れる)
 

優紀:……っ!

(拓磨、激しく咳き込んでいる)

 

拓磨:き、りはら、さん……?
 

優紀:私が蝶、ですって?
 

拓磨:俺にとっては、そうでした。愚図でのろまで、誰の目にも留まらない虫けらの俺の名を、貴女はすぐに覚えて、いつも笑顔で呼んでくれました。仕事もできて、いつだって快活で、ひらひらと自由に飛ぶ蝶のよう、でした。
 

優紀:私が蝶……ですって?
 

拓磨:だから、なんとかして貴女の視界を独り占めしたかった。だから貴女になら、叩かれても首を絞められても満足できた。
 

優紀:……やめて。
 

拓磨:すみません。
 

優紀:私が蝶なら、やっぱり誰かが私を握り潰すじゃない。私は嫌よ。もうそんなのは。私は……
 

拓磨:桐原さん。貴女は、一体何を潰していたんですか?
 

優紀:……
 

拓磨:桐原さん。
 

優紀:黙って。
 

拓磨:どうして泣いているんですか?
 

優紀:……っ!?


(少しの間)
 

優紀:……帰って。
 

拓磨:でも
 

(優紀、拓磨を打つ)

 

優紀:これで満足?私は絶対に貴方と恋に落ちたりなんかしない。落ちたらあとは、踏みつぶされるだけだもの。
 

拓磨:桐原さん。
 

(優紀、再び拓磨を打つ)
 

優紀:……やっぱり、虫けらは虫けらよ。その身に余る願望を持った虫けらなんて、ただ気持ち悪いだけで、無意味だわ。
 

拓磨:……
 

優紀:今すぐ消えて。
 

拓磨:桐原さん。
 

優紀:消えて。
 

拓磨:……失礼します。
  
【間】
 
―数週間後/屋上

 

(最初の日と同じように、優紀が煙草を吸っている)

 

拓磨:やっぱりここにいたんですね。
 

(優紀、ゆっくりと煙を吐く)
 

拓磨:隣、いいですか?
 

優紀:……好きにしたら?
 

拓磨:失礼します。
 

優紀:……
 

拓磨:……
 

(優紀、煙草を消す)

優紀:今日は呼んでないんだけど?
 

拓磨:というより、あれからずっと呼ばなかったじゃないですか。
 

優紀:当り前でしょ。私たちの邪な関係は終わったんだもの。
 

拓磨:はい。だから俺は、ただ休憩しに来ただけです。
 

優紀:あっそ。
 

拓磨:辞めちゃうんですね、会社。
 

優紀:別に入りたくて入った会社じゃなかったし。強いて言えば、この屋上が好きだったくらいで。
 

拓磨:あの日桐原さんを追いかけて初めてここを知りましたけど、いいですよね、ここ。奇跡的に周りになんの遮蔽物もないから、空がパノラマに見えて。
 

優紀:飛んで行けそうでしょ?どこまでも。
 

拓磨:……飛んでいきたかったんですか?
 

優紀:……飛んでいけると、思っていたわ。
 

(少しの間)
(優紀、何かに気付く)

 

優紀:それ、どうしたの?
 

拓磨:え?
 

優紀:シャツの袖口。染みがついてる。
 

拓磨:あ……本当だ。
 

優紀:なんだか血みたい。嫌な色。
 

拓磨:血ですよ、これ。
 

優紀:え?
 

拓磨:……俺だけが、知らなかったんですね。
 

拓磨:貴女以外の誰ともろくに会話なんてしたことなかったから、俺だけが知らなかった。そんな噂話。
 

優紀:まさか。
 

拓磨:課長と付き合ってたんでしょう?桐原さん。
 

優紀:……
 

拓磨:でも課長は、取引先のお嬢さんと婚約した。
 

優紀:小林君。
 

拓磨:俺、生まれて初めて人を殴りました。
 

優紀:なんてことをしたの。そんなことをしたら
 

拓磨:さすがにクビになるでしょうね。でもその時は仕事とか、その後の生活とか、そういうのを全部ぶち壊しても構わない、って思っていました。
 

優紀:……
 

拓磨:桐原さんの抱えていた衝動とは、きっと違うんでしょうけど。それでも初めての衝動でした。
 

優紀:私のそれより、よっぽど健全よ。
 

(少しの間)

拓磨:聞いても、いいですか?
 

優紀:……「蝶」のようだと言われたわ。彼にも。
 

拓磨:あ……
 

優紀:でも結局私は、標本の蝶でしかなかったの。捕まえて殺して、飾って楽しんで、時にちょっと人に自慢できる程度のものでしか、なかったの。
 

拓磨:……
 

優紀:私は、蝶になんかなりたくなかったわ。
 

拓磨:……ごめんなさい。
 

優紀:私は生きているわ。だから、標本になんてなれない。それなのに、いつの間にかしっかりと虫ピンで留められて、身動きが取れなくなってた。
 

拓磨:もう、いいです。
 

優紀:最後まで聞きなさいよ。あの人を殴ってしまった貴方への、私なりの責任の取り方でもあるんだから。
 

拓磨:そんなことは
 

優紀:分かっていたのよ。羽根を引きちぎれば逃げ出せる、って。でもそうしたら、私はただの虫けらになってしまう。羽根を失った蝶に、なんの意味があるっていうの?
 

拓磨:だから、「蝶」を潰したんですか?
 

優紀:パノラマの大空をバックに目の前を飛んでいる蝶が、婚約者の彼女に見えたわ。私には――羽根を失う勇気も覚悟もない私には、現実をどうすることもできない。だから蝶を潰してやったの。久しぶりに気持ちいいと思えた。久しぶりに、心から笑えた。
 

(少しの間)
 

拓磨:桐原さん。もうひとつ、聞いてもいいですか?
 

優紀:なに?
 

拓磨:それなら何故、俺を「蝶」の代わりにしたんですか?
 

優紀:……似ていたから。
 

拓磨:誰にですか。
 

優紀:私に、よ。
 

拓磨:桐原さんに?
 

優紀:何もできないくせに、いっちょ前に自分の欲望にだけひどく忠実で……ああ、あと。
 

拓磨:あと?
 

優紀:私が叩いた時の顔。
 

拓磨:顔?
 

優紀:「この人になら何をされても快感にできる」って顔。それが一番そっくりだった。
 

優紀:あの人と一緒にいた時の私と、同じ顔をしてた。それが本当に不愉快で、仕方なかった。
 

拓磨:……やっぱり死にたかったんじゃないですか、桐原さん。
 

優紀:死にたかったならとっくに死んでる。私は、ただの馬鹿な女。臆病者の、愚かな虫けらなの。
 

(拓磨、大きなため息をつく)
 

優紀:好きなだけ笑えばいいわ。
 

拓磨:桐原さん、俺の顔を見てください。
 

優紀:な、によ。
 

拓磨:これが、貴女を笑いたい顔に見えますか?
 

優紀:知らないわよ、気持ち悪い。
 

拓磨:俺、やっぱり貴女と恋がしたいです。
 

優紀:今更何言ってるの。
 

(拓磨、幸せそうに微笑む)

拓磨:俺……ああなんて言ったらいいんだろう。その、今、すごく興奮しているんです。
 

優紀:はあ?
 

拓磨:やっと俺は、「蝶」になれた気がします。
 

優紀:どういうこと?
 

拓磨:だって、貴女は俺に自分を見ていたんでしょう?俺にとって、やっぱり貴女は蝶で……、だったら、だから俺も「蝶」じゃないですか。
 

優紀:……
 

拓磨:「この人の視界を独り占めできるなら、何をされてもいい」って、貴女が恋人に思っていたのなら、俺だってあなたと恋ができるはずです。
 

(優紀、その場から離れようとするが、拓磨が優紀の腕を掴む)

 

拓磨:逃がしませんよ。
 

優紀:手を、放して。
 

(拓磨、そのまま優紀を抱き寄せる)
 

優紀:やめて。
 

拓磨:放しません。放すわけがないでしょう?やっと俺は「蝶」になれて、貴女と対等になれたんです。もう虫けらじゃない。貴女の命令は聞きません。
 

優紀:放して……!
 

拓磨:放しません。
 

優紀:所詮貴方も私も標本の蝶よ。そんな歪なもの同士で、何を始められると言うの。
 

拓磨:俺の羽根を、貴女にあげます。
 

優紀:は?
 

拓磨:俺にも羽根があるのなら、あげます。だから安心して、貴女は今の羽根を引きちぎってください。
 

優紀:小林君、貴方何を言っているの。貴方は今、「蝶」になれて喜んでいたばかりじゃない。 
 

拓磨:ええ、最高の気分です。だって「蝶」なら羽根がある。貴女にあげることができる。
 

優紀:そうしたら、貴方はまた虫けらに逆戻りよ。
 

拓磨:でも、俺の羽根は貴女の背中にある。貴女は優しい人だから、きっとそれを忘れられない。だから貴女の視界には、いつだって俺がいる。きっと、ずっと。
 

優紀:……何を
 

拓磨:だから今度は、貴女の身代わりとしての俺ではなく、目障りな俺自身をいたぶればいい。思う存分叩いて、踏んで、蹴り飛ばして、首を締めればいい。
 

優紀:いかれてる。
 

拓磨:でも、やっぱり貴女は逃げない。
 

(優紀、拓磨の頬を打つ)
 

拓磨:そう、それでいいんです。
 

優紀:……貴方が、貴方が私を「蝶」だなんて言うから、いけないのよ。
 

拓磨:好きなだけ、好きなように生きて、呼吸をしてください。そしてひらひらと、空に飛んでいけばいい。そうしてたまに、その背中に生えた俺の羽根に苛立ちを覚えたら、衝動に駆られたら、また自由に俺をいたぶればいい。
 

(優紀、静かに涙を零す)
 

拓磨:愛しています。
 

優紀:虫けらが、何を
 

拓磨:いいえ、俺は「蝶」です。羽根を自らもいだだけの、「蝶」です。
 

優紀:なら、虫けらは私の方ね。
 

拓磨:違いますよ。言ったじゃないですか。俺にとって貴女は、永遠に「蝶」です。
 

優紀:ふっ……ふふふ……
 

拓磨:愛しています。
 

(優紀、もう一度拓磨を打つ)
 

拓磨:……貴女だけが、俺が「蝶」であることを知っていればいいんです。
 

(優紀、さらに拓磨を打つ)


拓磨:愛しています。優紀さん。――俺を、貴女だけの、永遠の「蝶」にしてください。

 
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【幕】

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