#24「標本 ―モンシロチョウ―」
(♂0:♀2:不問0)上演時間30~40分
※こちらの作品は#22「標本 ―アオスジアゲハ―」の比率変更版です。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
千尋
【内山千尋(うちやまちひろ)】(女性)
高校一年生。地味で愚図で冴えない少女。茉莉花の同級生。
茉莉花
【伊藤茉莉花(いとうまりか)】(女性)
高校一年生。眉目修正、成績優秀、品行方正な学校の人気者。千尋の同級生。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―プロローグ
千尋:――私を、貴女の「蝶」にして。
【間】
―高校の屋上
(茉莉花、地面に座って本を読んでいる)
千尋:伊藤さん。
茉莉花:え?ああ、内山さん。
千尋:本、読んでるの?
茉莉花:うん。でも内緒にしてね。ほら、ここ本当は生徒立ち入り禁止でしょう?
千尋:私は別に、言いふらすつもりは。
茉莉花:そう?良かった。
千尋:隣、いい?
茉莉花:もちろん。どうぞ。
(千尋、茉莉花の隣に座る)
千尋:伊藤さん、ここ好きなの?
茉莉花:屋上?
千尋:うん。よく来てるみたいに見えるから。
茉莉花:うーん、別に理由なんて考えたこと、なかったな。ある日たまたま扉の鍵が壊れてるのに気づいてから、なんとなく。でも……やっぱり好きだから、になるのかしら。
千尋:そっか。
(茉莉花、本を閉じる)
茉莉花:それで?内山さんはどうして屋上に?
千尋:えっと……伊藤さんに、用があって。
(茉莉花、くすりと笑う)
茉莉花:あら、私つけられていたのね。
千尋:あの……あのね。私、見ちゃったんだ。こないだの昼休み、ここで。
(少しの間)
茉莉花:……何を?
千尋:伊藤さんが、蝶を……
茉莉花:蝶を?
千尋:その、に、握りつぶしているのを。
茉莉花:……
千尋:……
茉莉花:それで?
千尋:そ、それで、って?
茉莉花:私が蝶を握りつぶしていたとして、なあに?
千尋:……伊藤さん、笑ってたよね?蝶を握りつぶしながら。
茉莉花:だから?
千尋:だから、なんでそんなこと、って……
茉莉花:そんなこと、聞いてどうするの?皆に言いふらす?「伊藤茉莉花(まりか)は優等生の皮をかぶった残酷な女だ」って。
千尋:ううん、別にそういうつもりじゃ
茉莉花:ならどうして、「見た」なんてわざわざ私に言いに来たの?もしかして、私の秘密をネタに、脅しに来たんだったりして。
千尋:そんなんじゃない。
茉莉花:じゃあなんで?
千尋:否定、しないんだ。
茉莉花:だって貴女、見たんでしょう?
千尋:……うん。 ねえ、本当にどうして、そんなことをしたの?
茉莉花:別に。ただなんとなく、かな。
千尋:なんとなく……。
茉莉花:ひらひらとのんきに目の前を飛んでたから、潰してやりたくなったの。それだけ。
千尋:何か嫌なことでもあった、とか?
茉莉花:ううん、何も。たまに発作みたいにそういう衝動に駆られるの。
千尋:そういう衝動……
茉莉花:何かを徹底的にいたぶって壊してしまいたくなる、そんな衝動。
千尋:……そっか。
茉莉花:ねえ。
千尋:な、なに?
茉莉花:本当は、何が目的なの?
千尋:目的、って……。
茉莉花:だってそうじゃないと不自然だもの、貴女の行動。
千尋:……私を。
茉莉花:……
千尋:私を、貴女の「蝶」にして。
茉莉花:は?
千尋:貴女がその衝動に駆られた時は、代わりに私をいたぶって欲しいの。
茉莉花:……内山さん、もしかして貴女、マゾなの?
千尋:へ?う、ううん、自分をそうだと思ったことはない、けど。
茉莉花:ふぅん。
千尋:ただ……その時の貴女に、興味があって。
(茉莉花、ゆっくりと立ち上がる)
茉莉花:んー。でもさ、それって私に何かメリットあるかなあ?
千尋:え、だから「蝶」の代わりに……
茉莉花:「いたぶって」って懇願されていたぶるなんて、そんなのただのボランティアじゃない。そんなんじゃ私は一ミリも満たされない。だってそれは、私のしたいことじゃないもの。
千尋:……
茉莉花:それに申し訳ないけど、内山さんって地味だしダサいし、正直全然そそられない。
千尋:そんなこと……分かってるよ。
茉莉花:だとしたらなおさらじゃない?好みじゃない相手の頼みを聞く義理はないと思うの。
千尋:……それならやっぱり、「口止め料」ってことでどう?
茉莉花:ふうん?
千尋:眉目秀麗、文武両道の学校の人気者がそんなことしてたなんて、結構なスキャンダルだよね。ましてやバリバリのミッション系のこの学校じゃ、大問題だよ、きっと。
(茉莉花、千尋の頬を打つ)
千尋:……っ!
茉莉花:最低。自分の欲の為に脅すなんて。
(千尋、ほうと恍惚のため息をつく)
茉莉花:……
千尋:それで、いい。
(茉莉花、もう一度千尋を打つ)
千尋:……っ
茉莉花:ねえ、こっちを見て。
(千尋、ゆっくりと茉莉花の目を見る)
(少しの間)
茉莉花:……分かった。これからは貴女にする。
千尋:あ……
茉莉花:勘違いしないでね。単に気が変わっただけ。飽きたらさっさと捨てるから。
千尋:うん。
茉莉花:あと、自分が「蝶」だなんて思わないで。貴女はただの、誰も名前を知らないような薄汚い「虫けら」よ。
千尋:それでじゅうぶん。
茉莉花:……あっそ。じゃあ、私は戻るね。そろそろお昼休みも終わるし。
(茉莉花、深呼吸をするといつも通りの笑顔を作る)
茉莉花:五限は体育だったけ?内山さんも急がなきゃね。
千尋:……うん。
【間】
―数日後/屋上
茉莉花:遅い。
千尋:ごめん。
茉莉花:机の中に入れといたメモ、見たんでしょう?五分以内に来いって書いたよね、私。
千尋:……篠塚先生に、つかまっちゃって。
(茉莉花、千尋の頬を打つ)
千尋:……っ
茉莉花:虫けらが口答えなんて生意気。
千尋:……ごめん。
茉莉花:ねえ。
千尋:な、に?
(茉莉花、後ろ手に隠していたものを千尋に見せる)
茉莉花:これ、なんだと思う?
千尋:……ガムテープ?
(茉莉花、にっこりと笑う)
茉莉花:ピンポーン。それじゃあ次の問題ね。私はどうして、こんなものを持ってきたんだと思う?
千尋:……分かんない。
茉莉花:正解は、醜い虫けらの口をふさぐため、でした。
千尋:……
茉莉花:ほら顔、上げて。
(千尋、ゆっくりと顔を上げる)
(茉莉花、千尋の口にガムテープを貼り付ける)
千尋:ん……む……
茉莉花:これで良し、っと。
千尋:……
茉莉花:私さ、蝶は美しい羽根を持つから蝶であることを許されるんだと思うんだ。羽根を失ったり、傷つけたりした蝶は、例え生物学上は「蝶」であったとしても、誰も「蝶」だとは見なさない。ただの「虫けら」に成り下がるの。
千尋:……?
茉莉花:どんな生き物だってそう。誰かにとって何かしらの意味があるから、その存在を許される。捕食するもの、捕食されるもの、美しいもの、命の循環になんらかの利益をもたらすもの。
千尋:……
茉莉花:生物である限り、大抵はどこかしらにカテゴライズされるんだけどさ。でもたまぁにいるんだよね。「何のために生まれてきたのかさえ分からない存在」って。……ねえ、内山さん。この意味、分かる?
(千尋、小さく呻く)
茉莉花:「虫けら」の声なんか、意味がないから必要ないってこと。
(茉莉花、千尋を打つ)
千尋:んんっ……!
茉莉花:私、蝶が嫌いなの。何も知らない顔をしてひらひらと、ただ美しく飛んでるのが、腹立たしくて仕方なくって……無意味に蠢(うごめ)く虫けらと同じくらい嫌い。
(茉莉花、再び千尋を打つ)
千尋:んんんん……(「伊藤さん」と呼ぼうとしている)
茉莉花:ん?
千尋:んん……
茉莉花:……むかつくんだよね、内山さんって。蝶とは違う意味で、すっごくむかつく。
(茉莉花、さらに千尋を打つ)
千尋:ん……
茉莉花:「虫けら」のくせに「蝶」になろうとする、その目。(打つ)
千尋:ん……
茉莉花:なれっこないのにね。(打つ)
茉莉花:本当にむっかつく。(打つ)
(何度も千尋を打つ茉莉花。呻く千尋)
(少しの間)
茉莉花:はぁ……はぁ……
(千尋、荒く呼吸をしている)
茉莉花:飽きちゃった。私、もう戻るね。ガムテープ、剥がしていいよ。
(千尋、ガムテープを剥がし咳き込む)
茉莉花:苦しかった?
千尋:……うん。
茉莉花:貴女、やっぱりむかつく。
千尋:え?
茉莉花:一人で満たされた顔しちゃってさ。気持ち悪い。
(茉莉花、千尋を打つ)
千尋:つっ……!ねえ、伊藤さんは……
(千尋、何かを言いかけてはっとする)
千尋:あ……
茉莉花:なあに?もう喋っていいって。遊びは終わり。
千尋:伊藤さんは、満たされなかった?
茉莉花:……さあ。
千尋:そっか。
茉莉花:本当にもう戻るね。そうだ、篠塚先生につかまったって言ってたけど、何かあったの?
千尋:えっと……伊藤さんを探してたみたい。ほら、伊藤さんクラス委員だから……。
茉莉花:うわ、最悪。
千尋:あ、でもクラス日誌の話だったし、ちょうど今日の担当の子も近くにいたから、もう終わってる。
茉莉花:そっか。 ……ありがと。
【間】
―さらに数日後/屋上
千尋:伊藤さん。
茉莉花:あら、早かったのね。
千尋:何度もこっちが待たせるのは悪いと思って。
茉莉花:ふうん……
(茉莉花、そのまま千尋の胸倉を掴むとフェンスにその身体を押し付ける)
千尋:つっ……!
茉莉花:ここのフェンスね、前から少し建付けが悪いみたいなの。ほら、ちょっと体重かけるだけでぐらぐらするでしょ?
千尋:……
茉莉花:このまま落ちて死んじゃったら、って考えたら、どう?
千尋:怖くないと言ったら、嘘になる、かな。
(茉莉花、くすくすと笑う)
茉莉花:下校間際のこんな時間に落ちたら、きっと何人かは巻き添えになるわね。
千尋:……伊藤さんも、落ちちゃうよ。
茉莉花:そうかもね。
千尋:伊藤さんは、死にたいの?
(茉莉花、千尋を打つ)
茉莉花:なんで私が死にたがらなきゃいけないの?
千尋:ごめん。
茉莉花:成績も素行も良くって親しみやすい、って評判の生徒よ、私。なんでその私が、死にたがらなきゃいけないの。
千尋:……
(茉莉花、不意に千尋から離れる)
茉莉花:つまんないの。
千尋:今日はもう、おしまい?
茉莉花:そんなわけでしょ?私はまだ、貴女を潰していないもの。
千尋:……潰したいと、思ってくれているんだ。
茉莉花:は?
千尋:私は「蝶」ではないんでしょう?ならなんで
(茉莉花、千尋の首を絞める)
茉莉花:口答えを許したつもりはないんだけど。
千尋:いとうさ……苦し……
茉莉花:ねえ内山さん。貴女って、私のことが好きなの?
千尋:分かんないよ……
茉莉花:は?
千尋:憧れては……いたよ……。蝶を潰した時の笑顔にも、強烈に……惹かれた……。伊藤さん、の、その笑顔を、誰も知らないその笑顔を……独り占めしたいと思った……。
茉莉花:なんだ、やっぱり好きなんじゃない。
千尋:……これは、恋なのかな?
茉莉花:何言って
千尋:潰して欲しいと、思ってるよ。今でも。でも……こんな邪な想いを恋なんて、私は呼べない……。
(茉莉花、千尋の首を一層強く締める)
(一層苦しむ千尋)
茉莉花:このままだと内山さん、死んじゃうね。
千尋:そう……だね……
茉莉花:本望でしょ?私に潰されて死ぬのなら。
千尋:うん……。伊藤さんに潰されたその瞬間、私は「蝶」になれるんだもん。
茉莉花:虫けらが蝶になんて、なれるわけがないでしょ。貴女はただの虫けらとして死ぬの。
千尋:……悲しい、なあ。
(茉莉花、微笑む)
茉莉花:残念だったわね。
(茉莉花、そのままゆっくりと千尋に口づける)
(少しの間)
千尋:ああそっか……
茉莉花:え?
千尋:私、分かった。
茉莉花:何が?
千尋:私は、確かに「蝶」にもなりたかったけど……本当は……
茉莉花:……
千尋:本当は、単純に、恋がしたかったんだ。
千尋:いとう、さん、貴方、と。
茉莉花:っ!
千尋:虫けらが……蝶になれるわけも、蝶と恋に落ちることができるわけも、ない、のに……ね……
(茉莉花、弾かれたように千尋から離れる)
(千尋、激しく咳き込む)
千尋:いとう、さん……?
茉莉花:私が、蝶?
千尋:私にとっては、そうだったよ。愚図でのろまで、誰の目にも留まらない虫けらの私の名前を、伊藤さんは一番に覚えて、いつも笑顔で呼んでくれた。いつだって快活で、自由で、ひらひらと愛らしく飛ぶ蝶のよう、だった。
茉莉花:私が……蝶?
千尋:だから、なんとかして貴女の視界を独り占めしたかった。だから貴女になら、叩かれても首を絞められても、満足できた。
茉莉花:……やめて。
千尋:ごめん。
茉莉花:私が蝶なら、やっぱり誰かが私を握り潰すじゃない。私は、もうそんなのはごめんよ。私は……
千尋:ねえ伊藤さん。貴女は、一体何を潰していたの?
茉莉花:……
千尋:伊藤さん。
茉莉花:うるさい。
千尋:なんで、泣いているの?
茉莉花:……っ!?
(少しの間)
茉莉花:……帰って。
千尋:でも
(茉莉花、千尋を打つ)
茉莉花:これで満足?私は絶対に貴女と恋に落ちたりなんかしない。落ちたらあとは、踏みつぶされるだけだもの。
千尋:伊藤さん。
(茉莉花、千尋を打つ)
茉莉花:……やっぱり、虫けらは虫けらよ。その身に余る願望を持った虫けらなんて、気持ち悪いだけで、無意味なの。
千尋:……
茉莉花:今すぐ消えて。
千尋:伊藤さん
茉莉花:消えて。
千尋:……バイバイ。
【間】
―数週間後/屋上
(茉莉花、地面に座って本を読んでいる)
千尋:やっぱりここにいたんだ。
(茉莉花、ため息をつく)
千尋:隣、座っていい?
茉莉花:……好きにすれば。
千尋:ん。
茉莉花:……
千尋:……
(茉莉花、本を閉じる)
茉莉花:……今日は呼んでないんだけど。
千尋:というより、あれからずっと呼ばなかったじゃない。
茉莉花:当り前でしょ。私達の邪な関係は終わったんだもの。
千尋:だよね。だから私は、ただ外の空気を吸いに来ただけ。
茉莉花:あっそ。
千尋:本当に行っちゃうの?留学。
茉莉花:別にどうしてもこの学校で勉強したかったわけじゃないもの。強いて言えば、この屋上が好きだったくらいで。
千尋:あの日伊藤さんを追いかけて初めて屋上に出たけど、いいよね、ここ。周りになんの遮蔽物もないから、空がパノラマに見えて。
茉莉花:飛んで行けそうよね。どこまでも。
千尋:……飛んでいきたかったの?
茉莉花:……飛んでいけると、思っていたわ。
(少しの間)
(茉莉花、何かに気付く)
茉莉花:それ、どうしたの?
千尋:え?
茉莉花:シャツの袖口。染みがついてる。
千尋:あ……本当だ。
茉莉花:なんだか血みたい。嫌な色。
千尋:血だよ、これ。
茉莉花:え?
千尋:……私だけが、知らなかったんだね。伊藤さん以外の誰ともろくに会話なんてしたことなんてなかったから、私だけが知らなかった、そんな噂話。
茉莉花:まさか。
千尋:篠塚先生と付き合っていたんでしょう?
茉莉花:……
千尋:でも篠塚先生は、教頭先生のお嬢さんと婚約をした。
茉莉花:内山さん。
千尋:私、生まれて初めて人を殴ったよ。
茉莉花:なんてことをしたの。そんなことをしたら
千尋:退学になるよね、きっと。でもその時は、必死に勉強してこの学校に入ったこととか、そういうのを全部ぶち壊しても構わない、って思った。
茉莉花:……
千尋:伊藤さんの抱えていた衝動とは、きっと違うんだろうけど。それでも初めての衝動だった。
茉莉花:私のそれより、よっぽど健全よ。
(少しの間)
千尋:……聞いてもいい?
茉莉花:……「蝶」のようだ、って言われてた。先生にも。
千尋:あ……
茉莉花:でも私は、結局標本の蝶でしかなかった。捕まえて殺して、飾って楽しんで、時にちょっと人に自慢できる程度のものでしか、なかったの。
千尋:……
茉莉花:私は、蝶になんかなりたくなかった。
千尋:ごめん。
茉莉花:私、生きてるもの。だから、標本になんかなれない。それなのに、いつの間にかしっかりと虫ピンで留められて、身動きが取れなくなってた。
千尋:もう、いいよ。
茉莉花:最後まで聞きなさいよ。先生を殴ってしまった貴女への、私なりの責任の取り方なんだから。
千尋:そんなことは
茉莉花:分かってたの。羽根を引きちぎれば逃げ出せる、って。でもそうしたら、私はただの虫けらになってしまう。羽根を失った蝶に、なんの意味があるっていうの?
千尋:だから「蝶」を潰したの?
茉莉花:目の前を、パノラマの大空をバックに飛んでいる蝶が、先生の婚約者に見えたわ。私には――羽根を失う勇気も覚悟もない私には、現実をどうすることもできない。だから蝶を潰してやったの。久しぶりに気持ちいいと思えた。久しぶりに、心から笑えた。
千尋:もうひとつ、聞いてもいい?
茉莉花:なに?
千尋:それならなんで、私を「蝶」の代わりにしたの?
茉莉花:……似ていたから。
千尋:誰に?
茉莉花:私に。
千尋:伊藤さんに?
茉莉花:何もできないくせに、いっちょ前に自分の欲望にだけひどく忠実で……ああ、あと。
千尋:あと?
茉莉花:私が叩いた時の顔。
千尋:顔?
茉莉花:「この相手になら何をされても快感にできる」って顔。それが一番そっくりだった。先生と一緒にいた時の私と、同じ顔をしてた。それが本当に不愉快で、仕方なかった。
千尋:……やっぱり死にたかったんじゃない。
茉莉花:死にたかったならとっくに死んでる。私は、ただの馬鹿な小娘だったのよ。臆病で愚かな、虫けら。
(千尋、大きなため息をつく)
茉莉花:笑いたきゃ笑えばいいわ。
千尋:伊藤さん、私の顔を見て。
茉莉花:……。
千尋:これが、貴女を笑いたい顔に見える?
茉莉花:知らないわよ、気持ち悪い。
千尋:私、やっぱり貴女と恋がしたい。
茉莉花:今更何言ってるの。
(千尋、幸せそうに微笑む)
千尋:私……ああなんて言ったらいいんだろう。その、今、すごく興奮しているんだと思う。
茉莉花:はあ?
千尋:やっと私は、「蝶」になれた気がするんだ。
茉莉花:どういうこと?
千尋:だって、伊藤さんは私に自分を見ていたんでしょう?貴女は、やっぱり私にとっては蝶で……だったら、だから、私も「蝶」じゃない。
茉莉花:……
千尋:「この人の視界を独り占めできるなら、何をされてもいい」って、伊藤さんが先生に思っていたのなら、私だって貴女と恋ができるはずだよ。
(茉莉花、その場から離れようとするが、千尋がその腕を掴む)
千尋:逃げないで。
茉莉花:手を、放して。
(千尋、そのまま茉莉花を抱き寄せる)
茉莉花:……やめて。
千尋:放さないよ。放すわけがないじゃん。やっと私は「蝶」になれて、貴女と対等になれたんだもの。もう虫けらじゃない。貴女の命令は、聞かない。
茉莉花:放して。
千尋:やだ。
茉莉花:所詮貴女も私も標本の蝶よ。そんな歪なもの同士で、何を始められるっていうの?
千尋:私の羽根を、貴女にあげる。
茉莉花:は?
千尋:私にも羽根があるのなら、あげる。だから安心して、伊藤さんは今の羽根を引きちぎればいい。
茉莉花:内山さん、貴女何を言ってるの。貴女は今、「蝶」になれた、って喜んでいたばかりでしょ?
千尋:うん、最高の気分。だって「蝶」なら羽根がある。伊藤さんにあげることができる。
茉莉花:そうしたら、貴女はまた虫けらに逆戻りよ。
千尋:でも、私の羽根は伊藤さんの背中にある。貴女は優しい人だから、きっとそれを忘れられない。だから貴女の視界には、いつだって私がいる。きっと、ずっと。
茉莉花:……何を
千尋:だから今度は、伊藤さんの身代わりとしての私じゃなくて、目障りな私自身をいたぶればいい。思う存分叩いて、踏んで、蹴り飛ばして、首を締めればいい。
茉莉花:いかれてる。
千尋:でも、やっぱり伊藤さんは逃げない。
(茉莉花、千尋を打つ)
千尋:そう、それでいいよ。
茉莉花:……貴女が、貴女が私を「蝶」だなんて言うのが、悪いのよ。
千尋:好きなだけ、好きなように生きて、呼吸をしてよ。そしてひらひらと、空に飛んでいけばいい。そうしてたまに、その背中に生えた私の羽根に苛立ちを覚えたら、衝動に駆られたら、また自由に私をいたぶればいい。
(茉莉花、静かに涙を零す)
千尋:愛してるよ。
茉莉花:虫けらが何を
千尋:私は「蝶」だよ。羽根を自らもいだだけの、「蝶」だよ。
茉莉花:なら、虫けらは私の方ね。
千尋:違うよ。言ったじゃない。私にとって貴女は、永遠に「蝶」だって。
茉莉花:ふっ……ふふふ……
千尋:愛してる。
(茉莉花、もう一度千尋を打つ)
千尋:……貴女だけが、私が「蝶」であることを知っていればいいよ。
(茉莉花、さらに千尋を打つ)
千尋:愛してるよ、茉莉花。――私を、貴女だけの、永遠の「蝶」にして。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【幕】