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​​#29「ヴィント・ル・バハルの女王」

(♂2:♀2:不問0)上演時間30~40


――――――――――――――――――――――――――――――――――――

史郎

【東金史郎(とうがねしろう)】男性

細菌、特に伝染病の分野において著名な医学博士だが、やや過激な発想をするため、学界からは煙たがられている。

国立感染症研究センター泉ヶ先庁舎にて「ヴィント・ル・バハルウイルス」の研究中にバイオハザードが発生。施設内に隔離される。

 

千尋

【東金千尋(とうがねちひろ)】女性

東金史郎の娘。研究センターの見学に来た際バイオハザードに巻き込まれ、史郎同様、施設内に隔離される。

 

リサ

【夏目リサ(なつめりさ)】女性

東金史郎の助手。バイオハザード発生時には施設外にいたため、難を逃れる。

施設の外から通信で史郎のサポートを行っている。

牧野 

【牧野勝利(まきのかつとし)】男性

バイオハザードの発生により研究センターに派遣された自衛隊員。施設内外の物資の受け渡しなどを行っている。

夏目リサとは高校の同級生。

​――――――――――――――――――――――――――――――――――――

―国立感染症研究センター泉ヶ先庁舎内南エリア/東金の研究室
 

リサ:はい、夏目です。

東金:あー、あー、聞こえるかな。東金だ。
 

リサ:教授。いつものことですが、きちんと聞こえていますのであまり大声は出さないでください。
 

東金:そうは言ってもね、僕はどうも国を信用してないもので。だってほら、僕らはどうにも仲が悪いだろう?だから、ここの設備も信用していないんだよ。
 

リサ:仰りたいことは分かりますけど、それは教授にも大いに原因がありますからね。
 

東金:いつも突拍子もない発言と警告ばかりしては、予算をもぎとっていこうとするから、かい?


リサ:……よくご存知じゃないですか。
 

東金:突拍子もない発言なんて、一度もした覚えはないんだけどねえ。現に今回のことだって、結局「このザマ」じゃないか。最初の感染者が出た段階で、僕はかなり警告したんだよ?――「このウイルスは危険すぎる」ってさ。
 

リサ:それはあくまでも結果論です。物事には、手順とやり方ってものがあるんですよ。
 

東金:めんどくさいねえ。

(リサ、小さくため息をつく)


リサ:……それで?どうなさいました?
 

東金:ああ、今からちょっと移動するよって報告。
 

牧野:また食堂ですか?


東金:あれ、マキタ君もいたのか。
 

牧野:マキタ、ではなく、マキノです教授。いい加減覚えてください。
 

東金:これはごめんよ。人の名前を覚えるのって苦手なんだよね。
 

牧野:お食事なら、毎回こちらから届けているでしょう?
 

東金:数日に一回大量に届けられる携帯食料(レーション)かい?いい加減あの単調な味も飽きたよ。それに僕は、あそこのハンバーガーが好きなんだ。
 

牧野:知っています。でも、わざわざ危険を冒してまで食べたいものですかね?自動販売機のファーストフードじゃないですか。


東金:日常的に口にしていたものだから、恋しいのさ。
 

リサ:教授でもそんなことを言うんですね。
 

東金:そりゃあだって、僕は「人間」だもの。
 

リサ:「この状況」でそれを言うのは反則です。
 

(牧野、大きくため息をつく)

 

牧野:食堂周辺の「人魚」を確認します。
 

(牧野、モニターをチェックし始める)

東金:あの辺りは、君ら自衛隊と厚労省のサポートチームがしっかりとバリケードを作ってくれたんじゃなかったっけ?


牧野:万が一ということもありますから。彼らはあれで侮れない。
 

東金:ほらね、リサ君。やっぱり国はあてにならない。
 

リサ:教授。
 

牧野:教授のその口癖にはもう慣れました。お気になさらず。
 

(牧野、モニターのチェックを終える)

牧野:オーケイ。教授の研究室から食堂までの通路及び、食堂周辺の半径100メートル以内に「人魚」は確認できませんでした。


東金:ありがとう。それじゃ行ってくるよ。
 

牧野:防護服を忘れずに。通路と食堂は、まだ空調整備がされていません。

東金:はいはい。

牧野:あと、用件だけ済ませたらすぐに戻ってください。
 

リサ:彼らは音に敏感です。その……
 

東金:自動販売機の音声と、電子レンジの音だろう?
 

リサ:ええ。ですから、ハンバーガーが温まったら、すぐに戻ってください。
 

牧野:以前のように、悪趣味にもその場で食事を始めようとすることなどないよう願います。国のバリケードは、あてになりませんから。


東金:なんだ、やっぱり根に持ってるじゃないか。
 

リサ:いいから早く行ってください。
 

東金:分かったよ。それじゃ、またあとで。


【間】

 

―対策本部
 

リサ:あ!また一方的に回線切って!もう!
 

牧野:まあ防護服を着ている限り、こちらからコネクトすることも可能ですから大丈夫ですよ。……きちんと着ていれば、の話ですが。


リサ:さすがに着ているでしょう。そこまで頭のおかしな人じゃないですよ、うちの教授も。
 

牧野:この状況でも研究を続けるのは、じゅうぶんにどうかしているかと。研究者ってのは、皆そんなもんなんですかね。
 

リサ:多かれ少なかれおかしなところはありますけど。
 

牧野:……それにしても。
 

リサ:なんです?


牧野:ちょっと薄情じゃあないですか?
 

リサ:……娘さんのこと?
 

牧野:ええ、娘さんを心配する素振りが全くない。
 

リサ:……
 

牧野:いくらこちらが生存を確認して定期的にコンタクトを取っているとはいえ、ウイルスの充満する施設の中で分断されてしまっている状況です。心配するのが普通かと。
 

(リサ、ため息をつく)

 

リサ:牧野くん。


牧野:急に「くん」付けすんなよ。
 

リサ:面倒くさくなったのよ。高校の同級生に今更……ねえ?
 

牧野:まあいいけど。で、なんだよ。


リサ:あなたの「普通」は、決して「普遍」ではないのよ。
 

牧野:あー……俺にも分かるように言ってくれ。


リサ:親が子供を愛して心配するのが「普通」とは、限らないってことよ。
 

牧野:あ……
 

リサ:親が子を虐待し続けているのが日常なら、それがその親子にとっての「普通」よ。
 

牧野:……すまん、軽率だった。
 

リサ:別にいいわ。とはいえ、あの二人がどこかよそよそしいのは事実ね。
 

牧野:そうだな。
 

リサ:さ、教授が優雅にハンバーガーを買いに行っている間に、私たちは千尋さんの様子を確認しましょ。
 

牧野:ああ。
 

【間】
 

―施設内東エリア/資料室
 

リサ:千尋さん、聞こえる?
 

千尋:はい、聞こえます。リサさんですよね。
 

リサ:声だけですぐに分かってくれるの、毎度のことながら嬉しいわ。
 

千尋:今私の話し相手は、あなたかマキタさんしかいませんから。
 

牧野:マキノだ。
 

千尋:すみません。
 

牧野:そういうところ、父子(おやこ)そろってそっくりだな。
 

リサ:牧野くん。
 

千尋:……あの人の話はやめてもらえますか?
 

牧野:……すまん。
 

リサ:あー、それで、そっちの様子はどう?
 

千尋:いつも通りです。遠くで「人魚」の鳴き声は聞こえるけれど、こちらに近付いてくる気配はありません。きっとバリケードのおかげですね。


牧野:自衛隊員の命がけの作業、なめんなよ。
 

千尋:なめてなんかいませんよ。このバリケードのために何人もの方が命を落としたり、その……
 

牧野:「人魚」になったのも知ってる、か。
 

千尋:はい。
 

リサ:千尋さん……
 

牧野:そんなことは気にするな。こちとら生半可な覚悟で国防やってんじゃねえんだ。
 

千尋:マキタさん、今のは少しかっこよかったです。
 

牧野:マキノだ。
 

(リサ、たまらず吹き出す)


リサ:ああごめんなさい。不謹慎だったわね。
 

(千尋、くすりと笑う)

千尋:いえ、ちっとも。ここだと娯楽も何もないので。たまには笑わないと、笑い方を忘れちゃう。
 

リサ:次の差し入れの時に、何か持っていく?雑誌とか、ゲームとか。
 

千尋:それなら、絵本が欲しいです。
 

牧野:絵本?
 

千尋:はい。絵本を何冊か。
 

リサ:絵本、好きなの?
 

千尋:ええまあ。なにより、落ち着くので。
 

牧野:そうか。他にはないのか?
 

千尋:いえ、それだけでじゅうぶんです。
 

リサ:分かったわ。すぐに用意する。しばらく待っていてね。
 

千尋:はい、ありがとうございます。あと……
 

リサ:なあに?
 

千尋:マキタさんに持ってきてもらいたいんです。
 

牧野:マキノだ。……了解した。俺が持っていこう。
 

千尋:ありがとうございます。では。
 

(少しの間)

牧野:一方的に回線を切るところまで教授にそっくりだな。
 

リサ:そうね。……それにしても、絵本とはね。
 

牧野:意外だよな。
 

リサ:ええ。どっちかというとファッション雑誌なんかを好むタイプだと思ったのに。
 

牧野:まあこんな状況じゃあ心細くもなるだろうからな。絵本みたいなものの方が心が落ち着くんじゃねえか?
 

リサ:そうかもしれないわね。
 

牧野:「人魚姫」でも買っていくか?
 

リサ:やめなさい、悪趣味よ。
 

【間】
 

――施設内南エリア/東金の研究室
 

東金:おーい夏目くーん、聞こえるかい?
 

リサ:聞こえていますから
 

東金:「大声はやめてください」。
 

リサ:……分かっているなら、少しは協力してくださいよ。
 

東金:あはは、ごめんごめん。少し調べてもらいたいことがあるんだ。
 

リサ:なんでしょう?


東金:「ヴィント・ル・バハル」の過去の国内での発症例だ。
 

リサ:「過去の」って、「ヴィント・ル・バハル」の発症が確認されたのはひと月前で、それはもちろん教授も把握済みですよね?


東金:「ヴィント・ル・バハル」が最初に確認されたのは、アラビア砂漠地帯の遊牧民(ベドウィン)の発症だったね。
 

リサ:はい。同時期にそこへ取材に行っていたジャーナリストが、帰国後まもなく発症。これが国内で最初の患者です。


東金:感染後の彼と濃厚接触した人間はもれなく感染。そのあまりに特異な症状から、感染者は速やかに全てここに運び込まれて、封じ込めに成功。
 

リサ:……したかのように思われましたけどね。まさかこんなことになるなんて。
 

東金:封じ込めの際に感染した職員がそれを隠蔽し、発症。館内にパンデミックが発生。ま、バイオハザードなんて、映画のなかの世界だと思ってたんだろうさ、みんな。


リサ:レベル4の感染症として国へ非常事態宣言を発表するよう求めたのは、教授だけでしたものね。
 

東金:飛沫感染、接触感染、血液感染、空気感染、どのパターンでも感染する未知のウイルスなんて、恐ろしすぎるだろう?

リサ:……

東金:皆ウイルスの恐ろしさをまるで分かっちゃいない。太古から存在する住人を、どうして新参者の僕らが制御できるなんて思っているんだろうね。愚かな話さ。


リサ:ええ……。それはさておき、ちゃんと覚えているじゃないですか。なぜ今更国内での感染例なんか?
 

東金:少し、気になることがあってね。
 

リサ:と言いますと?
 

東金:昔嫁さんから聞いた「伝説」を思い出したんだ。

リサ:伝説?

東金:どこぞの海沿いの村の伝説らしいんだけど、そこに「人魚さま」ってのが出てくるんだよ。
 

リサ:「人魚さま」……
 

東金:ああ。その「人魚さま」の描写が、今回の「ヴィント・ル・バハル」の感染者によく似ているんだ。身体中を覆う青黒い鱗、人間だった頃の特徴を残しているかのような二足歩行、皮膚から分泌される磯の香りに似た匂いのする粘液、ぐっと飛び出た眼球、凶暴性。

リサ:……

東金:どうだい?似すぎてやいないかい?
 

リサ:確かに……そっくりですね。名前まで同じなんて。
 

東金:「ヴィント・ル・バハル」はアラビア語で「人魚」だからね。ここまでの類似を見逃すことはできない。


リサ:ええ。確かになんらかの関連性はあるような気がします。ですが、そうだとしたら、これまでの伝染病の歴史に名前が残っていないのはおかしいですよね。


東金:そこなんだよ。感染者はなぜか海水を求めて彷徨う。アラビアで感染が広がらなかったのは、感染者のほとんどが海へたどり着く前に砂漠で干からびちまったからだ。だけど、海に囲まれたこの国ではそうはいかない。だとしたら何故、「人魚さま」が増えなかったんだろうな、って。
 

リサ:あくまでも伝説ですからね。ただのフィクションである可能性もあります。
 

東金:そうだね。だが、伝説に至るまでにはかならずなんらかの事実があったはずだ。確認もせずに頭から否定するわけにはいかない。
 

リサ:分かりました。詳しく調べてみます。
 

東金:よろしく頼むよ。
 

リサ:ところで、そちらの研究の進捗はどうですか?
 

東金:さっぱりだね。なにせこのウイルスは、人間の体内でしか生きられないようで。
 

リサ:なんですって?
 

東金:マウスも猿も、いまだにピンピンしてるんだ。なんの症状も見られない。しかし人間の体内に入った途端、ウイルスは劇的に増殖して、その身体をそっくり作り変えてしまう。つまり……データが足らないんだ。まさか人体実験するわけにもいかないし、困ったもんだよ。
 

リサ:そう、ですね。
 

東金:まあ気楽にやるよ。なにせ時間はたくさんあるからね。伝説の件だけ、よろしく頼むよ。
 

リサ:分かりました。


【間】
 

―施設内東エリア/資料室
 

(千尋が眠っている)

(牧野がやってきて、声をかける)

牧野:千尋ちゃん、千尋ちゃん。
 

千尋:……あ、マキタさん、おはようございます。
 

牧野:牧野だ。おはよう。いつも朝早くでごめんな。
 

千尋:仕方ありませんよ。「彼ら」が一番大人しい時間帯なんでしょ?
 

牧野:詳しいね。
 

千尋:一応、「あの人」の娘ですよ。こうなる前から色々話は聞いていましたし。
 

牧野:そっか。
 

千尋:それに、個人的に興味もありましたから。
 

牧野:血は争えないってやつだな。
 

千尋:認めたくありませんけど。


(牧野、持ってきた荷物を千尋に差し出す)

牧野:これ。5日分の食事と、あとご要望の絵本。一応うちの女性隊員が選んだから、変なものは入っていないと思う。


千尋:変なもの?


牧野:最初は俺が選んだんだけど、怒られてさ。「『ハーメルンの笛吹き男』を選ぶなんてどんな神経してんだ」って。

(千尋、くすりと笑う)


千尋:確かにこの状況でそのチョイスは、ちょっと。あれって、ペスト流行下のドイツが舞台だって言うじゃないですか。


牧野:らしいな。知らなかったんだよ。……それにしても。やっと笑ったな。よしよし。
 

千尋:私、そんなに笑いませんか?
 

牧野:この施設が隔離されて以来、笑っているのを見たことはないな。
 

千尋:「隔離されてから」って、そもそも私と牧野さんって、そうなった後からの知り合いじゃないですか。
 

(牧野、ふっと笑う)

牧野:それもそうか。なあ、少しだけ話をしていってもいいか?
 

千尋:すぐに戻らないとリサさんに怒られるんじゃないですか?
 

牧野:まあそれもそうなんだが、少しだけ、な。
 

(千尋、ため息をつく)

牧野:よいしょっと。

(牧野、千尋の返事を待たずにその隣に腰掛け、防護服から顔を出す)

牧野:ぷはー。

千尋:やっぱり息苦しいものですか?そのマスク。

牧野:まあな。

千尋:それで?一体何の用です?まさかこの期に及んで「あの人」の話じゃないですよね?
 

牧野:あー……すまん、そのまさかだったんだが。
 

千尋:話すことなんてありませんよ。
 

牧野:寂しくないのか?
 

千尋:全然。
 

牧野:なんでそんなに教授を嫌うんだ?まあ確かにちょっと、いやかなり癖のある人だとは思うけどさ。
 

千尋:よく分かってるじゃないですか。
 

牧野:家でもそんな感じなのか?
 

千尋:そうですね。というか、そもそも研究室にこもりきりでちっとも家に帰ってきません。帰ってきたところで、「国はちっとも分かっていない」って話か、感染症にかかった患者の話しかしない。食事しながら「吐血」だの「壊死」だの言うんですよ?信じられない。
 

牧野:そりゃなかなかにめんどくさいな。
 

千尋:そもそも家庭を持つべき人じゃなかったんですよ。なのにお母さんはそんなあの人を必死で支えてました。そしてそのまま病気にかかって、あっさり死んじゃった。あの人は、死に目にも来なかった。

牧野:……そうだったのか。

千尋:私が今こんな目に遭っているのだって、あの人のせいじゃないですか。
 

牧野:たまたま施設の見学に呼ばれた日にバイオハザードだなんて、ついてなかったとは思うよ。
 

千尋:結局なんでここに呼ばれたのかも分からないまま、こんなことになっちゃって。
 

牧野:怖い思いしたよな。
 

千尋:そりゃあそうですよ。いきなりサイレンが鳴ったかと思えば、みんな悲鳴を上げて逃げていくし、化け物には襲われるし。挙句、助けが来るまで、こんななんにもない部屋に閉じこめられる羽目になって。
 

牧野:……ああ。
 

千尋:でも今になってみると、なんで私がここにいるのか、分かった気します。
 

牧野:え?
 

千尋:この資料室はバリケードで完全に隔離されているし、国によって新調された空調設備のおかげで、感染に至る量のウイルスは存在しない、ってことでしたよね。


牧野:ああ。だからここでは、俺もこの暑苦しい防護服を脱いで、君と会話ができるってわけだ。
 

千尋:微量でも、感染するんです。


牧野:……え?
 

千尋:あの人の言う通り、やっぱり国のやることって、あてになりませんね。こんなことで分かり合いたくはなかったけど。


牧野:ちょ、ちょっと待ってくれ、感染、って……うそだろ?
 

千尋:私の腕、見ます?

(千尋、シャツの袖をまくる)


千尋:ほら。
 

牧野:ひっ!
 

千尋:不思議なんです。私の身体には確かに「人魚」のような鱗が生えてきました。でも全身に広がることはなく、一部で止まりました。意識はしっかりしてるし、いつまで経っても「人魚」になる気配はない。それにね。

(千尋、どこかに向けて声をかける)
 

千尋:絵本が来たよ。聞きにおいで。
 

(遠くから複数の「何者か」の声と足音が聞こえる)

牧野:この声……足音……!まさか……


千尋:さらに不思議なことに、私は彼らと意思疎通ができるようになりました。と言っても彼らは言葉を話さないので、テレパシーに近いんでしょうか。私は慣れないので、ほとんどこうやって話しかけますけど。

牧野:は……?

千尋:バリケードはもう必要ありません。今だって、「しばらく二人にして」ってお願いしていただけなんですよ。
 

牧野:う、そだ……
 

千尋:うそじゃないんですけど。……ああ、その人は私の大切なお客さんだから、暴れちゃだめ。

牧野:足音が、やんだ……?(千尋、牧野に微笑みかける)


千尋:……ね?
 

牧野:じゃあ本当に……。なら、俺は……
 

千尋:試したかったんです。こうなるのは私だけなのか、それともウイルスが変異して、この事態を解決するヒントになったのか。


牧野:なん、で、俺を
 

千尋:知らない人と一緒だと気まずいじゃないですか。あの人と一緒も嫌。リサさんもいいかな、って思ったんですけど、状況的にあなたを呼ぶのが一番自然かな、って。
 

牧野:うそ、だろ……?
 

千尋:だましてごめんなさい。牧野さん。あぁ、これから絵本を読むので、良かったら聞いてください。彼らは私の話を聞くのが好きなんです。でも私、そんなに話すことないし、困ってたんですよね。助かりました。
 

牧野:あ……あ……


【間】


―施設内東エリア/東金の研究室
 

東金:……なんだって?
 

リサ:冗談のような話ですが、本当です。各地に伝わる人魚伝説を調べてみたところ、教授の仰った「海沿いの村」というのは、瀬戸内海に面した「百鱗(ひゃくりん)村」という場所の事で間違いなさそうです。地域の史料館に「人魚さま」に関する事件の詳細を記した書物と、その村の家系図が残されていました。それを辿ってみたところ……

東金:僕の嫁さんにたどりついた、と。

リサ:……はい。

東金:嫁さんの家系が「人魚さま」と交わっていたとはね……。
 

リサ:伝説にある「時折海から上がってくる『人魚さま』」というのが、おそらく感染者でしょうね。上がってきたのは生殖のためと思われます。そして教授の奥様の家系は、この「人魚さま」の「花嫁」として交わり、それを鎮めてきたそうです。恐らく感染を防いでいたのでしょうね。「人魚さま」が「花嫁」と交わる祠には、一定の距離からは誰も近付くことが許されなかったそうですから。
 

東金:「花嫁」の一族は先天的に抗体を持っていたか、ウイルスを克服した特殊な体質――ある種の新人類だったってことか。
 

リサ:おそらく。

東金:続きを聞かせてくれ。

リサ:ある時この「花嫁」に選ばれた一族の娘が発狂し、ひとりを除く村中の人間を殺害した後、海に身を投げたそうです。……生まれたばかりの赤ん坊を残して。
 

東金:その唯一殺されなかったひとりってのは?
 

リサ:どうやら赤ん坊の乳母にあたる人間のようです。
 

東金:彼女が残された赤ん坊を育て、「人魚さま」の遺伝子とウイルス情報を持った特殊な血は繋がれた、ってことか。
 

リサ:そういうことになるでしょうね。この短時間で調べられたのはこれだけでした。
 

東金:いいや、十分だよ。ありがとう。
 

リサ:あと教授。牧野、そっちに寄ってませんか?
 

東金:いいや?
 

リサ:千尋さんのところへ差し入れに向かってからまだ戻ってきていないので、もしかしたら、と思ったのですが……。


東金:「人魚」に襲われた?
 

リサ:まさか。コンタクトを取ってみま……、ああ牧野くん?何してるの、早く戻っ
 

牧野:夏目。すまん。
 

リサ:え?
 

牧野:俺は、そっちに戻れない。
 

リサ:待って。それって、どういう


牧野:感染した。
 

リサ:なんですって……!?
 

牧野:教授に繋げられるか?
 

リサ:今ちょうど繋がってるわ。
 

牧野:このまま俺とも繋げることは?
 

リサ:可能よ。
 

(少しの間)

牧野:教授、聞こえますか?
 

東金:牧野くん。夏目君の様子からなんとなく察したよ。……残念だ。
 

牧野:なんだ、やっぱり俺の名前、わざと間違えてたんですね。
 

東金:さてね。
 

牧野:娘さんに、そっくりだ。
 

東金:千尋?
 

(牧野の呼吸が少しずつ苦し気になってゆく)

牧野:千尋ちゃんが戻る前に手短に話します。ウイルスはほんの微量でも空気感染します。……千尋ちゃんも、感染しています。


リサ:なんですって?
 

牧野:ただなぜか、千尋ちゃんの見た目に大きな変化はなく、自我もしっかりしています。さらに、「人魚」たちと意思疎通が図れるようです。というより、施設内の「人魚」たちは、まるで彼女に服従しているようにすら見えます。


東金:「人魚さまの花嫁」……!
 

牧野:……え?
 

東金:いや、なんでもない。続けてくれ。
 

牧野:千尋ちゃんは、そういった症状が発生するのが自分だけかなのかどうかを確認するために俺を呼んだようですが、残念ながら、俺は……

(牧野、激しく咳き込み嘔吐する)
 

リサ:牧野くん!?
 

牧野:俺は、だめなようです。千尋ちゃん、だけなようです。
 

リサ:そんな、牧野くん!
 

東金:牧野くん、千尋は?


牧野:「人魚」たちと……施設内のどこかに出かけました。げほっ……ごほっ……!じきに戻ると、思いま、す……
 

リサ:牧野くん……いやよ、そんな……
 

牧野:すまんナ、夏目。今晩夕飯デも、誘おウと思っテたん、だケドなあ……
 

東金:牧野くん。貴重な情報をありがとう。どうか最後まで諦めず、がんばれ。
 

(牧野、うめき声を発する)
 

リサ:ねえ……牧野くん?牧野くん!
 

東金:……通信が切れた。どうやら、「人魚さまの花嫁」の血筋は本物のようだ。しかも「人魚」を服従させられるなんて、素晴らしいじゃないか。
 

リサ:教授、あなたって人はこんな時に何を!
 

東金:勘違いするなよ、夏目君。僕らは研究者だ。感染した者たちの命を無駄にしないためにも、データを集め、解決策を見出さなきゃならない。


リサ:……あなたにそんな崇高な意志があるとは思えませんが。
 

東金:もちろん半分くらいは、この事実への興奮もあるけどね。
 

リサ:あなたを軽蔑します。
 

東金:なんとでも言いたまえ。僕は食事に出るよ。
 

リサ:ご勝手に。
 

【間】
 

―施設内通路


(東金、通路の壁にもたれかかり激しくせき込む)

東金:……感染した者たちの命を無駄にしない、ねえ……

(東金、力なく笑う)
 

千尋:やっと会えた。
 

東金:……千尋か。
 

千尋:この施設って、結構広かったのね。探すのに時間かかっちゃった。
 

東金:少し見ない間に、ずいぶんと魅力的になったじゃないか。
 

千尋:この鱗のこと?
 

東金:それにその取り巻きも。……やあ牧野くん、久しぶりだな。
 

牧野:きょ、ウ、ジゅ……


千尋:牧野さん、苦しいですか?でもきっと、もう少しで楽になると思います。大丈夫、私がいるもの。
 

牧野:触ルな……!


千尋:すっごい、まだ私に抵抗する意思はあるんですね。やっぱり自衛官って強いんだなあ。……ああだめよ、彼はまだ「未成熟」なだけ。傷つけないで。


東金:ふっ、すっかり女王様だな。
 

千尋:見たところ、あなたももうすぐこちらの仲間入りでしょ?お父さん。
 

東金:いい気分は、しないねえ……

(東金、さらに激しくせき込む)
 

千尋:残念ね、研究が続けられなくて。感染しなければ、私のことを実験台にできたのに。
 

東金:いいさ。僕自身が実験台になれば、いい。
 

千尋:は?
 

東金:そして、君が研究を続けるんだ。僕らを使って。
 

千尋:そんなことしないわ。
 

東金:いいや、君はする。僕の娘だからね。
 

千尋:何様のつもり?
 

東金:父親、さ。
 

千尋:ふざけないで!私はあなたの思い通りになんかならない。私はもう、あなたの娘なんかじゃない。この世界で一番強い存在になったのだもの。
 

(東金、嘔吐する)
 

千尋:私をここに呼ぶ前の日に言ってたわよね。「ここまで劇的に身体を作り変えるなんて、このウイルスは生物の進化に関わってきた存在である可能性が高い」って。
 

東金:そんなことも、言ったっけなあ。

 

千尋:私も、今ならそう思う。皆ウイルスが求める進化についていけないから「人魚」になるの。でも、私は違う。ウイルスを制御して「進化」したの。だから、あなたの思い通りになんか、ならない。
 

リサ:ならばどうするつもり?
 

東金:夏目くん。
 

リサ:失礼。その様子だと、もうスピーカー通話に切り替えても問題はなさそうでしたので。
 

千尋:……

 

リサ:千尋さん。あなたが何をするつもりかは知らないけれど、このウイルスが私たち人間の尊厳を奪う限り、私たちは戦うわよ。つまり、場合によってはあなたとも、徹底的に戦うわ。
 

千尋:勝てると思っているんですか?このウイルスが微量でも外に出ればアウト。そうでしょ?
 

リサ:それでも戦うわ。それが私の、教授の、牧野くんの仕事だもの。
 

(東金、うめき声を発する)
 

千尋:この人も牧野さんも、じきに完全に変化します。あなたの味方、ひとりもいなくなっちゃいますね。
 

リサ:だったら何?
 

千尋:お友達に、なれますね。
 

リサ:はあ?
 

千尋:あなたも孤独、私も孤独。だから、お友達になれるかな、って。
 

リサ:あなた……滅茶苦茶よ……!
 

千尋:まあいいや。私はね、リサさ
 

牧野:うあぁぁぁぁぁっ!

(牧野、千尋に突進し、その腹を刺す)
 

千尋:え?
 

リサ:牧野くん!?
 

東金:ははっ、さすが、というべきかな……
 

(千尋、咳き込む)

 

千尋:ナイフなんて、持ってたの?ひ、きょう、じゃない?
 

牧野:伊達や酔狂デ、国防ヤッテ、ねェ……リさ……夏目……ういるス、を、外二……


千尋:はぁ……はぁっ……!どうして……誰も分かってくれない、の?
 

東金:千尋……
 

千尋:わたし、海に、みんなで海の国に、行く方法、考えよ、うとした、だけ、よ?
 

リサ:……海?
 

東金:なるほど、海から出ないことでウイルスを完全に封じ込めようとした、のか……
 

リサ:なんですって?
 

東金:さすが……未熟ながらも、僕の娘、だなぁ……
 

リサ:教授!
 

東金:……夏目君。
 

リサ:……
 

東金:僕らを、出すなよ。僕らが皆死ぬ、まで……!

(東金の呼吸が荒くなる)
 

リサ:……はい。

(千尋、ゆっくりとその場に倒れる)


千尋:……『そして、子供たちも男も、二度と戻ってきませんでした』
 

東金:「ハーメルンの笛吹き男」か。懐かしいな……。
 

千尋:はぁ……はぁ……は……

(千尋、段々と呼吸が浅くなる)
 

東金:よく、読んだっけ、なぁ……
 

【間】


―エピローグ
 

リサ:録音開始。本日は6月26日。私は夏目リサ。……国立感染症研究センター泉ヶ先庁舎は、完全に「人魚の国」と化した。施設の監視が私の役目だ。「人魚」が外に出ないように。……ここは、「水のない水槽」だ。水槽のなかを「人魚」たちが泳いでいる。海を求めて。私は彼らが干からびて死ぬまで、記録を続けるだけだ。今日も異常はなく、「普通」に時間が過ぎていく。

千尋:『むかしむかぁしあるところに』


リサ:……人の声?

(耳を澄ませるリサ)

リサ:……まさかね。ああ、はい。教授の研究データのサルベージですね。分かりました。……録音終了。今行きます!

  
千尋:『むかしむかぁしあるところに、ひとりの女の子がお父さんと住んでいました』

 
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【幕】

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