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​​#51「スヴニール」 

(♂1:♀1:不問0)上演時間60~70

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給仕

【給仕】男性

レストラン「スヴニール」の給仕。(男役と兼役)

 

【男】男性

時にはグラスに注がれ、時には皿の上に乗せられた記憶。(給仕役と兼役)

 

​【女】女性

時にはグラスに注がれ、時には皿の上の乗せられた記憶。

​――――――――――――――――――――――――――――――――――――

―レストラン「スヴニール」

 

給仕:いらっしゃいませ。本日は「スヴニール」にお越し頂き、誠にありがとうございます。ご予約頂きましたメニュー「スヴニール」は、当店の名前を冠した特別なコースです。お客様の時間が素敵なものとなりますよう、心を込めて給仕させて頂きます。

 

(少しの間)

 

給仕:失礼致します。食前酒――アペリティフでございます。こちらのカクテル「lie down(ライダウン)」は、日が落ちた街に明かりがひとつひとつ灯ってゆく様を表現しております。また、「lie down(ライダウン)」には「横たわる」という意味がございます。一体何が、どこに横たわるのか、ですか?その答えは……恐らくひとつではございません。お客様がご自身のグラスの中に見えたもの、カクテルを飲み干した瞬間に瞼の裏を過(よぎ)ったものの全てが答えでございます。一息で飲み干せてしまえる量ではございますが、よろしかったらお客様だけの答えを探すつもりで、お召し上がりくださいませ。

 

【間】

 

―アペリティフ「lie down」(0:1:0)

 

女:空が夜に染まるか染まらぬかのうちから安い酒をあおりにあおって、空がすっかりと夜に沈んだ頃に、足腰が立たなくなった。どうしてそんな飲み方をしたのか、なんて、目の前の男がひどくつまらない、説教臭い台詞を吐いている。吐きたいのはこっちだ。どうせ、失恋したのだろうとでも思っているのだろう。馬鹿のひとつ覚えのように。

「そんな飲み方」に理由なんてなかった。ただなんとなく、具体的な何かがあったわけでなく、本当にただなんとなく、全てが嫌になったのだ。ゴールが何かも分からぬまま走り始め、分からぬままに終わってしまいそうな人生が、なんとなく嫌で嫌でたまらなくなった。けれど、それを自らの手で終わらせるほどの虚無も持ち合わせていなくて、だから、適当に目についた店に衝動のまま入り、モルヒネを打つように慣れない酒をあおった。それだけだ。「横になりたい」なんて、ベタなつまらない台詞で、目の前の、先ほど会ったばかりの男をホテルに誘ったのも、同じ理由だった。

そういえば、この男は誰だったか。先ほどまで飲んでいた店で、隣に座っていたような気がする。もしかしたら、カウンターの中だったかもしれない。いずれにせよ、大した問題じゃない。どうせその時限りの関係だ。熱いものは熱いうちに、余計なことは考えず、速やかに飲み込んでしまおう。それで今抱えている漠然とした嫌悪感をすすげるのなら、それが一番。

が、やはり慣れないことはするものではなかったらしい。

こめかみから響く頭の痛みで目が覚めた私は、ひどく狼狽した。「やってしまった」――所詮はなんの主人公にもなれない塵(ちり)のように小さな人間が何を思いついたところで、結局行きつくところなんて、そんなものだ。安いドラマのようなことですら、私には似つかわしくなかった。

ゴムはしただろうか、この後変に付きまとわれたりしたらどうしよう、財布に金は残っているだろうか――どうしようもなく現実的な不安が、痛みと共にぐるぐると脳内を搔き回す。とりあえず、気持ちが悪い。

「大丈夫?」

隣の男を起こさぬようにとベッドを出たつもりだったが、それすらも私には出来なかったらしい。ああ本当に嫌になる。

男はこちらにやってくると、そっと私の背後にかがみ、老婆のように丸まった私の背をさすりながら「大丈夫?」ともう一度たずねた。この男がどこの誰だったか、酔いが醒めた今も思い出せない。が、背中から伝わるその掌の温度や、それ以外に言えることが思い浮かばないのが露骨に表れた不器用な「大丈夫?」の声の、無精ひげの伸びた少しだらしのない見た目に似合わぬ優しさと温かさが、男の情報として、また「予感」として、ひとつひとつ私の胸の中に積もってゆく。

私は男に顔を向けることができず、便器を抱えてわあわあと泣いた。あれだけ酒を飲んだのに、やったこともない「しな」まで作って男を誘ってみたのに、嫌な気持ちはちっとも晴れていなかった。いいや、むしろ増していた。どうして私はこうも、本当につまらない女なのか。彼の中にはどうしようもなくめんどうくさい、つまらない女として私が積もってゆくのだと思うと、たまらなく泣きたかった。

鼻水を啜りながら、自らの肩越しにちらりとベッドを覗き見る。そこに「予感」は、まだ横たわっているだろうか。そんな虫のいい話があるものか。私はもう一度わあと声を上げてしゃくりあげた。それでも、たとえ未だ残る嫌な気持ちで涙が止まらなくとも、私は人生で初めて、なにかのゴールを見たような気がした。

【間】

―レストラン「スヴニール」

給仕:アミューズ「ひとつまみの予感」でございます。ああ、お気になさらず。今夜このレストランはお客様の貸し切りですから、ゆっくりと、お客様のペースでお楽しみください。

【間】

―アミューズ「ひとつまみの予感」(1:0:1)

男:見ず知らずの女を抱いた。しかも強(したた)かに酔って前後不覚一歩手前になった女を、誘われるがままに。

カウンターの向こうで、彼女は食事もせずに酒を、大して美味くもなさそうにあおり続けていた。自分とあまり歳は変わらないように見えるが、酒を飲むのには慣れていないようだ。オーダーは「とにかく強いものを」。酒の味も飲み方も、何も知らないような女が、次々とグラスを空にしてゆく様はどう見ても訳アリだった。とはいえ、ここは場末の、バーカウンターとテーブルが二席といった、レストランとも呼べぬレベルの小さな店だ。そんな客など見慣れていた。大方男に捨てられでもしたのだろう。店のなかで泣いたりしなきゃいいけれど。毎回思うことだ。吐きでもされたら最悪だ。これも毎回思うことで、だから俺はグラスを拭きながら、そっとその女を見張っていた。

さすがに限界までアルコールが回ったのか、それとも単に腹が水分でいっぱいになったのか、女はやがてゆらりと立ち上がると、意外にもしっかりとした手つきで財布を出し、会計を済ませて店を出て行った。良かった。こちらの上がりの時間間際に面倒でも起こされたら困ると、そわそわしていたところだ。今日は運がいい。そそくさと残りの仕事を終えて店の外に出る。

先ほどの女が、店の前でうずくまっていた。

ここは店外だし、今は夏だ。放っておいても特に問題はない。無視をしてそのまま横を素通りしろ。何度も自分に言い聞かせながら歩き出した。が、気付くと俺は、その女の肩を叩き、「大丈夫ですか?」と声を掛けていた。誓って言うが、その時の自分に何もよこしまな気持ちはなかった。先ほどまで自分が注(つ)いだ酒を飲んでいた女を無視するのは、なんとなく決まりが悪い。そのまま帰宅しても、きっとどこか気持ちの晴れぬまま夜を過ごすことになりそうな気がした。それだけだった。そのはずだった。

それなのに、俺は結局、女の「横になりたい」という言葉に流され、さらにベッドで下手くそなしなを作るその姿に流され、そのまま彼女を抱き潰していた。思い返してみれば、俺は彼女の名前すら知らない。

「らしくないことをしてしまった」「やってしまった」という無意識の後悔の所為か眠りは浅く、女がベッドを出る気配で目が覚めた。黙って帰るつもりなのだろうか。それならそれで、この後悔の念も薄れるだろう。そう思って寝たふりをきめこんでいたが、女は真っ直ぐにトイレに向かったようで、ドアを開ける音とほぼ同時に便器の蓋を開ける音が聞こえ、すぐさま小さな唸り声がそれに続いた。そりゃああれだけ飲めば二日酔いにもなるだろう。

仕方なく俺は起き上がり、その死にかけの小動物のような背中に、再び「大丈夫?」と声を掛けた。女は振り向かない。よほど気分が悪いと見える。昨夜みっともなく酔い潰れていた姿からはあまりにかけ離れた、妙にいじらしいその背中に手を伸ばし、そっとさすってみる。その場の空気に耐えられなかったのが半分。さすがに可哀想になったのが、半分。

すると、あろうことか女はぐすりと大きく鼻をすすり、わあと声を上げて泣き出してしまった。おいおい、今更泣くのかよ。それほどに失恋が堪えたのか、それとも俺との過ちがそんなにも嫌だったのか。どちらにせよ、泣きたいのはこっちの方だった。

「大丈夫?」

もう一度声を掛ける。馬鹿の一つ覚えのように。残念ながら、俺はそれほど女の扱いが上手くない。気の利いた言葉も知らない。俺は何度も何度も「大丈夫?」と声を掛け、背中をさすり続ける。それしか知らないから、そうし続けた。

女の泣き声は止むことなく――むしろ最初よりも激しさを増していった。何がそんなに悲しくてつらいのか。

どれほど経ったろうか。女がおずおずとこちらを振り返った。昨夜(ゆうべ)はまあまあ綺麗に巻かれていた髪はすっかりと崩れ、涙と鼻水に濡れて顎の横にみっともなく張り付いている。そしてその視線は俺の顔に一旦止まると、そのまま視線を引っ張るように背後のベッドに移っていった。まさか、この期に及んでまだ俺と過(あやま)つつもりなのだろうか。

その瞳はしかし、昨夜の、何もかもを放り投げたようなものではなく、何かを追うような光を宿していた。もしかしたらそれは単に、頭上の照明のせいなのかもしれないが、それでも俺は、彼女の背に触れたままの右手にじんわりと伝わる熱を、全身で感じようとしていた。

たとえこれが、昨夜と同じく彼女に誘導されているだけのものだったとしても、「予感」ということにさせて欲しい――俺はただ、そんなことを考えていた。

【間】

―レストラン「スヴニール」

給仕:オードブル「憂鬱な誘惑」でございます。おかしな名前?そうですね。確かに、この後の食事への期待を高める皿の名前としては、いささか不穏かもしれません。ですが、このコースにおいては、それで良いのです。そんなに怪訝な顔をなさらないで下さい。きっと全ての皿を召し上がられた後に、その意味が分かるはずです。

【間】

―オードブル「憂鬱な誘惑」(1:1:0)

女:あの。

男:うん?

女:昨夜は、すみませんでした。

男:え。

女:いえ、今も、なんですけど。

男:……

女:あの、ほら、あの……

男:えっと……

女:いや、あの……

(少しの間)

男:水、持ってこようか?まだ気持ち悪いでしょ。昨日あれだけ飲んでたんだし。

女:あの、それはもう、本当に、大丈夫なので。

男:そう?

女:それより。

男:うん?

女:あの、いつもはこんなことしないんです。

男:えーと、それは、酔っぱらって男をホテルに連れ込む、的な?

女:……平たく言ってしまえば、はい。

男:……

女:……

男:とりあえず、服、着ようか。

女:え……

男:裸のままする会話でもなくない?君がそのままでいいなら、俺は別にいいんだけど。

女:……よくないです。

男:だろう?だから、ほらこれ。君の下着と服。

女:……ありがとうございます。

(少しの間)

女:本当に、いつもはこんなことしないんです。

男:うん、それはさっき聞いた。

女:だから、とにかく、ごめんなさい。

男:あー……

女:……

男:というよりね、むしろ謝るのはこっちだと思うんだ。

女:え?

男:いくら誘われたからって、出会ったばかりの人に――しかも酔って判断の鈍っている人にこんなこと、さ。それはだいぶ卑怯じゃん?

女:……

男:謝るタイミングが分からなくてまごまごしているうちに先に言わせちゃったね。ごめん。

女:はい……。

男:しかも「今」は、さ……

女:あ、はい!分かっています!二日酔いはしてますけど、これは、その、酔った勢いではない……です。

男:うん。それはそれで、やっぱり申し訳ないなって思って。

女:でも多分、そういう空気を作ったのは私、なので……その……

男:でも、名前も聞かず、君の話も聞かずに空気に流されるままってのは、やっぱりだめでしょ。

女:そんなものですか?

男:そんなものですよ。

女:……声が。

男:声?

女:声が、良いなと思ったんです。

男:え。

女:私、別に声フェチでもなんでもないんですけど、たださっき、二日酔いで唸っていた私に掛けてくれた「大丈夫?」って声が、なんだか妙に……いいなって。

男:いいな、って……

女:すみません、本当はもっといろんな言い方があるんでしょうけど、私あんまり話すの得意じゃなくて。

男:ああいやごめん、そうじゃないんだ。

女:え?

男:この顔は、その……照れくさいだけ。

女:照れ……くさい?

男:声を褒められたことなんて、今までなかったからさ。

女:そうなんですか?

男:うん。むしろ昔から自分の声はそんなに好きじゃなくて。

女:……

男:なんかきもくない?って。

女:そんなこと

男:だから照れてんの。

女:そうですか……。

男:そ。

女:でも、声だけじゃなくて、こう、背中をさすってくれた手の感じとかも、良いなって思いましたよ、私。

男:……

女:だから……なんとなく、この勢いならもう一回くらい、その……誘っても許されるかな、なんて。

男:それで今に至る、と。

女:……はい。

(少しの間)

男:本当に、今までないの?

女:なにがですか?

男:だから、その、こういうこと。

女:ない、って言ったと思うんですけど……。

男:あ、うん。そうだったね。

女:はい。

男:いや、なんか思ったより酔いが醒めても積極的だったから。

女:……すみません。

男:ああいや、悪い意味じゃないんだ。単純に意外だったってだけ。

 

女:……いつもの自分じゃ絶対にしないようなことを、しようと思って。

男:……

女:昨夜たくさんお酒を飲んだのも、同じ理由です。ただの現実逃避というか。

男:現実逃避、か。

女:ああでも!さっき声とかをいいなって思ったのは本当です。

男:うん、それは大丈夫。ありがとう。

女:だから余計に、このテンションならいけるかもって。いや、いけるってのも、その、よこしまな意味ではなくて……

男:……

女:えっと……

男:出ようか。

女:え。

 

男:ああごめん、ほら、どのみちそろそろチェックアウトの時間でしょ、って。

 

女:あ、じゃあお金、払います。私、ここの支払いした記憶がないので。

 

男:ああいいって。

 

女:でも……

 

男:あれこれ綺麗事言ってはみたけど、結局いい思いはさせてもらったからさ。

 

女:……

 

男:これはこれで、俺の現実逃避にもなった気がするし。お互いウィンウィンってことで。

 

女:……すみません。

 

男:これは俺にも言えるんだけどさ、謝るのもほどほどにしておこうよ。お互い気持ちいい思いをしたのは事実じゃん。謝ってばっかりいると、なんだかその事実もつまらない事実にすり替わっちゃいそうでしょ?どうせ現実逃避をするのなら、楽しい方がいいって。

女:……

男:じゃ、そういうことで、出ますか。

女:あの!

男:ん?

(女、財布からレシートを取り出し、裏になにかを書き込む)

女:レシートの裏でごめんなさい。これ、私のSNSのアカウントです。

男:え、うん。

女:一応……一応、どうぞ。

男:……これも、君にとっては「らしくない」こと?

女:……

男:ありがとう。受け取っておく。

女:はい。

男:あ、まずい電話かかってきちゃった。本当にもう出なきゃ。

女:あの、今回は本当にすみませ

男:久しぶりに楽しかったよ。ありがとうね。

女:……はい。

【間】

―レストラン「スヴニール」

給仕:スープ「水底で君を」、そしてこちらがパンの「レイジーモーニング」です。相変わらずおかしな名前だとお思いでしょう?ですが……ええ、そうです。最後まで召し上がって頂ければ。同じことを申し上げますが、急ぐ必要はございません。ゆっくりとお召し上がりください。

―スープ「水底で君を」(1:1:0)

男:いらっしゃいま……せ。

女:……こんばんは。

男:……

女:あの、深い意味はないです。ただ、ここのお酒美味しかったから、また来てみようかな、なんて。

男:客に来店の理由を聞く店なんて聞いたことないよ。

女:です、よね。

男:だから、気にせず座って。

女:それじゃあ、失礼して……。

(少しの間)

男:今日も現実逃避?

女:そうかもしれません。

男:そっか。

女:でも、今日は正体なくすまで飲んだりはしないので。

男:そうしてもらえると、助かるかな。

女:この間は本当に

男:ストップ。

女:すみません。

男:俺が「そうしてもらえると助かる」って言ったのは、また酒の勢いで流されたくないからってだけ。謝るのはもういいって。こないだも言ったでしょ?

女:そう、でした。

男:よし、それじゃあ改めて。お客様、ご注文は?

女:あの、いきなり改まられると、なんだか……

男:そっか。

 

女:はい。

 

男:んじゃ、何飲む?こないだと同じ感じ……だと駄目か。

 

女:お恥ずかしながら、自分がこの間何をオーダーしたのか覚えていないので、どのみち駄目ですね。

 

男:だね。

 

女:それに私、お酒はそんなに詳しくなくて……。じゃあどうして来たんだって話になりますけど。

 

男:別にここ、バーじゃないから平気だよ。そもそも夜だから酒を飲まなきゃいけないってわけでもないし。

 

女:あ……

 

男:ん?

 

女:それもそっか、って。

 

男:今更?

 

女:あなたとの出会いのきっかけがお酒だったから、なんとなくお酒が切り離せなくて。

 

男:なるほど。それじゃあ、ちょっと待ってて。

 

女:あ、はい。

 

(少しの間)

 

男:お待たせしました。

 

女:これは?

 

男:アールグレイモスコミュール。ウォッカの量は少し減らしてあるから。

 

女:あ……

男:SNSに投稿してたろ。アールグレイが好きだって。

女:そうでしたけど……

男:俺も好きです、ってリプライしたじゃん?好きだから、茶葉を自分用に店にも置いてるんだ。

女:話を合わせて下さっているのかと思っていました。

 

男:そこまで器用じゃないよ、俺。

 

女:そうなんですか?

 

男:器用に見えた?

女:この間の感じだと、なんとなく。如才(じょさい)無さそうというか、隙が無さそうというか。

男:そっか。

 

女:はい。

 

男:じゃあ、このアールグレイモスコミュールで、まずはひとつ信用してもらえた?

 

(女、小さく微笑む)

 

女:そうですね。

 

男:よかった。

 

女:え?

 

男:そういえば、初めて見たと思って。笑顔。

女:そう、でしたっけ?

男:多分。

女:そっか……

男:あと、そう。多分俺たち、そこまで歳も変わらないと思うんだよね。だから、敬語は要らないよ。

女:そんな急に言われても。

男:いいよ、気が向いた時だけで。

女:ありがとう……ございます。

(二人、ぷっと吹き出す)

男:まあそんな簡単にはいかないよね。

女:そりゃあそうですよ。

(女、グラスに口をつける)

女:……美味しい。

男:そりゃよかった。

(男、腰をかがめて女を見上げる)

女:なんですか、急にかがんだりして。

男:いいや?君を少し見上げるこの角度が落ち着くなって思って。

女:どうして?

男:この間、よく見た角度だからかな。

女:……

男:ごめん、この間の話を蒸し返すのはなし?

女:そういう意味じゃなくて……

男:……その時にさ、なんかいいなって思ったんだ。君の髪の毛を伝って君自身が俺に注がれている感じというか、そういうの綺麗だな、いいなって。

女:あの、恥ずかしいんですけど。

男:ま、意趣返しみたいなもんだと思って。

女:意趣返し?

男:ほら、俺の声褒めてくれたでしょ?あれ、結構嬉しくてさ。だから、返したくなっただけ。

女:……

男:素直に褒められると照れるでしょ?

女:……確かに。あと。

男:なに?

女:カウンターからそうして顔だけ覗かせてるの、こないだテレビで見たカバそっくりだな、って。

男:カバはひどくない?

女:私カバ好きですよ。

男:そっか。じゃあいいかな。

女:あの。

男:ん?

女:今日って、この間と同じくらいに上がります?

男:……それ、薄めに作ったつもりだったけど、もう酔った?

女:いえ、まだそれほどは。

男:じゃあそれ、「そういう意味」って受け取っちゃうけど。

女:……

男:やっぱり現実逃避?

女:そう思ってもらって構いません。だから別に断ってくれてもいいです。

男:……

女:……

男:オッケー。

女:……

男:言っておくけど、本当に俺、女遊びが上手なわけじゃないからね?勘違いしないでね。

女:え?

男:いや、なんでもない。それじゃあもう少しここで待てる?あと一時間もすれば上がりだからさ。

【間】

―パン「レイジーモーニング」(1:1:0)

女:あ、起こしちゃいました?

男:あーごめん、爆睡してた。

女:お仕事上がりにこんな……その、「お誘い」をしてしまったので、そりゃあ眠くもなりますよね。

男:「ごめん」は無しね。

女:はい。

男:現実逃避、できた?

女:……

男:できなかった?

女:……分かりません。

男:分からない?

女:そもそも何が現実なのかな、って思っちゃって。

男:現実の定義?

女:はい。

男:んー、「今現在目の前に置かれた事実」とか?

女:私もそんなようなものだと思っています。だとしたら、今のこの状況も、現実ですよね。

男:今更感はある気がするけど、そうだね。

女:現実逃避した先も結局現実だとするなら、私はどこに逃げ込めばいいのかな、って。

男:逃げ込みたいの?

女:逃げる先が、あるのなら。

男:俺じゃ、逃げる先にならなかったってことかな。

女:というより、逃げる先としては、なんだか申し訳なくなるくらい居心地が良くて。

男:俺、そんなに上手な方じゃないと思うけど。

女:そういう意味じゃなくて……

男:分かってる。照れくさいだけ。

女:だから、これはちゃんと現実が良いなって思ったんです。でもほら、ね?そうしたら、逃避先が分からなくなっちゃうじゃないですか。

男:真面目だなあ。

女:出会ったばかりの人をホテルに連れ込むような女は、真面目とは程遠いと思います。

男:行動じゃなくて、考え方が。そんなに深いとこまで考えたことなかったからさ、俺。

女:……

男:まあ居心地が良いと言ってくれるのなら、今はその居心地良いまま、だらだらしていようよ。休日の朝らしく。

女:あ、今日お休みなんですね。

男:まあね。

女:居心地良いままだらだら、って、それでいいんでしょうか。

男:いいんじゃない?朝からあれこれ真面目に考えてたら、夜になる頃にはすっかり疲れて、また色んなことが疑わしくなって、怖くなって、結局また逃げたくなるって。

女:そう、ですね。

男:もうひと眠りする?

女:でも、時間が。

男:延長してもいいじゃん。

女:じゃあ、もう少しだけ。

男:うん、そうしよ。ぶっちゃけ、俺まだ少し眠くて。

女:……

男:「ごめん」は無し。

女:そうじゃなくて。

男:ん?

女:やっぱり楽だな、って。

(男、あくびをする)

男:ならよかった。

女:……

【間】

―レストラン「スヴニール」

給仕:次の料理をお持ちしました。ポワソン「透明標本」でございます。私からは、もう特に説明することもございません。ただお客様の舌で、今目の前に置かれた皿を味わって頂ければと思います。ああでも、それでは給仕失格でしょうか。……そうですか?それなら、お言葉に甘えて。

―ポワソン「透明標本」(1:1:0)

女:あの。

男:ん?

女:これ。

男:アクリルキーホルダー?

女:この間水族館に行ってきたので、お土産です。

男:ありがとう。綺麗だね。

女:でしょう?

男:こういうの、どっかで見た気がするんだけど、なんて言うんだっけ?

女:透明標本っていうんだそうです。

男:透明標本。

女:正確には、透明骨格標本っていうらしいです。小さな生き物は骨格標本を作るのが難しいから、薬品で肉の部分を透明化した上で骨に着色することで、骨格を知るんだとか。

男:へえ。

女:単純に、綺麗だなって思って。それにSNSの投稿とかを見てると、こういうの、お好きな気がしたので。

男:うん、好きだよ。

女:良かった。

男:なんだか、俺たちみたいだ。

女:透明標本が?

男:そう。

女:どうしてですか?

男:俺たちって、こういうことをするようになってどれくらい経つっけ?

女:三か月くらい、だったと思います。

男:まだそれくらいしか経ってないっけ?

女:聞いておいてその返しは、どうなんですか?

男:ああごめん。いやだから、それこそ、この透明標本だなって思って。

女:……

男:俺、未だに君のSNSとハンドルネームしか知らない。

女:それは

男:ああ別に、それを責めてるわけじゃなくて。別に知らなくて困ったこともないし、今が居心地良いなら、なんとなくそれでいいと思ってる。

女:……はい。

男:今まではそんな風に思ったことなかったんだけど……なんだろ、順番の問題なのかな。俺、付き合ってもない人とこういう関係になること、なかったから。

女:……

男:そういえば、そもそも君は何から現実逃避しようとしてたんだろうとか、今も現実逃避の真っ最中なのかとか、そういうのもふわっとしたままだけど、不思議と、それもそこまで気になったことはない。

女:理由を聞いてもいいですか?

男:理由なんか俺も分からなかったけど、ただ、この透明標本を見ていると「そういうことなのかなあ」って思えてきたんだ。

女:「そういうこと」?

男:今の俺たちには、身体を重ねることに意味と意義があって、それ以外は透明化されているんだろうなって。

女:……身体を重ねることだけが必要なことで、だからそこだけに色がついているってことで合ってますか?

男:うん、そんな感じ。まあ俺も感覚だけで喋ってるから、はっきりとした正解を持っているわけじゃないんだけどね。

女:今のこの関係性だからこその心地良さだけが、色をもって形になっている、みたいな感じですか?

男:うん。俺たちの関係が不自然なようで自然なのは、この標本のように必要と不必要がはっきりと分けられていているからなんじゃないかな。

女:それは、そうかもしれません。

男:でも、さ。

女:はい。

男:こうして目に見える何かで象徴されて、分かったことがある。

女:……

男:やっぱり、どうでもよくはないね。

女:そう、ですか?

男:少なくとも、俺は。

女:……

男:アールグレイが好きで、水族館が好き。線路際の花と、夕焼け空と夜空が好き。友人との付き合いで始めただけのSNSはそんなに好きじゃない。独り暮らしだから、二切れが基本のパックの魚をいつも持て余していて、雨の休日はなんとなく丁寧におにぎりを作ってみたりする――SNSのやり取りとこうしてベッドの上で交わす会話だけでも、君について知ったことがすらすら出てくる。

女:私も。

男:……

女:アールグレイが好きで、水族館が好きで、山と、ピアノの音と満月が好き。お酒は実はそんなに強くなくて、お友達と一緒にいるとすぐにふざけて色々誤魔化すくせがあって、料理が得意。雨の休日はよく本を読んでいる――私も、結構すらすら出てきます。

男:うん。

女:でもこれって、今の私たちの関係では、やっぱりそんなに必要のないことですよね。

男:だから、透明化してる。

女:でも、どうでもよくない気がする、ですか?

男:俺は、そんな気がした。まだ、気がしただけだけど。

女:……

男:でも別に、君が話したくないことは聞かない。必要ないと思っているわけじゃないってだけ。

女:……

男:だから、俺の話をしてもいい?

女:……はい。

男:俺には、さ、なりたいものがあったんだ。で、せめてそれに近い仕事をしようと思って今のレストランに就職したんだけど、それでもやっぱり、そこには程遠くて。

女:今からでは目指せないものなんですか?

男:出来ないわけじゃないんだろうけど、それにはもうだいぶいい歳になってしまったというか……いや、それも言い訳だね。単純に、それだけの体力も気力もないんだ。憧れているだけで――ごっこ遊びでそれなりに満足できてしまうようになっていたんだ、いつの間にか。……諦めたんだよ、簡単に言えば。

女:……

男:そういえば俺は何に対してもそうだったな、って時折思うんだ。友情でも恋愛でも、それなりに満足できるところで、自分にブレーキをかけてしまう。それなりの満足すらもぶち壊れてしまいそうなときは、とっとと全てを諦める。いわゆる事なかれ主義っていうのかな。一応自覚はあってさ。だからたまに唐突に、なんのきっかけもなく、エアポケットに落ちたようにそれが強烈にのしかかってくる時があるんだ。俺は本当の意味で満たされることなく、このままぼんやり生きて死ぬんだろうなあ、って。

女:それで、現実逃避を?

男:そう、あの夜はちょうどそんなタイミングだった。だから、なんとなく君に流されてみた。そうしたら、思いのほか悪くなかった。そして君と同じように、これを単なる逃避にしてしまうにはもったいないように思えた。でもそうしたら、なんだか不安になった。

女:不安?

男:さっき言ったろ。俺の中に積もってゆく君のあれこれを、透明にしたままでいいのか、って。

 

女:自分の話をして、答えは出ましたか?

 

男:……まだ分からない。

 

女:そうですか。

 

男:やっぱりそのままでもいい気もするし、やっぱりそれじゃ納得できないような気もする。でも、納得できないからといって、骨身に染みついた事なかれ主義は、そう簡単には変わらない。

 

女:……そのままでいいじゃないですか。

 

男:……

女:そのままでいいじゃないですか。私は、断言できます。

男:……そっか。

女:難しく考えるなってあなたは言うと思います。でも、私には、やっぱりそれはできません。あなたが事なかれ主義を簡単に変えられないように。

男:……

女:居心地のいいだけの、輪郭が曖昧な現実がひとつくらいあったって、いいじゃないですか。そこをはっきりさせて、その先に何がありますか?曖昧だから居心地がいいんです。それをやめたら結局またこの現実にも疲れきって、なにもかもが疑わしく煩わしく、怖くなるだけです。

 

男:……そうだね。

 

女:そのままじゃだめですか?

 

男:ううん。ごめんね。

 

女:……

 

男:おいで。

 

【間】

 

―レストラン「スヴニール」

 

給仕:ソルベ「ひとさじの氷点下」でございます。

 

【間】

 

―ソルベ「ひとさじの氷点下」(1:0:0)

 

男:俯いたまま身じろぎひとつしない彼女の頬を両手で挟み、そっとこちらを向かせてみた。揺れる瞳の奥に、もわりと揺れるものがあった。彼女の中に沈殿していた澱(おり)が舞っている。あの日、注がれた熱湯の中で踊っていたアールグレイの茶葉のように。けれどこれは、茶葉じゃない。俺が悪戯に注いだ熱湯に煽られ、いやなものが染み出してゆく。澱の正体がなんなのか、俺は知らない。聞きたくないと言ったら嘘になる。それでも聞かないのは、本当に今さっき自分が言ったように、彼女の意思を尊重してのことだったろうか。そんなことを考える。答えは出ない。「おいで」とは言ったものの、それ以上のことをする気にはなれず、俺はじっと彼女の瞳と、その奥で揺れるものを見つめ続けていた。彼女もまた、黙って揺れていた。

 

(女、大きくため息をつく)

 

【間】

 

―レストラン「スヴニール」

 

給仕:コースも折り返しを越えましたね。もはや私は黙って皿だけお客様の前に置いて行くのがよろしい気も致しますが、やはり皿の名前くらいはご案内させてください。……ヴィアンド「animal instinct(アニマル・インスティンクト)」でございます。

 

【間】

 

―ヴィアンド「animal instinct」(1:1:0)

 

女:今日は先にお話をしてもいいですか?

 

男:……いいよ。どうした?

 

女:あれからずっと、考えていました。

 

男:……

 

女:何を、とは聞かないんですね。

 

男:ん、まあなんとなく予想はついたから。

 

女:そもそもどうして、私はあなたに自分のSNSアカウントなんて渡したんだろうって。

 

男:え?

 

女:なんですか?

 

男:いや、そこからだとはさすがに思わなかったから。

 

女:どうしても色々振り返って確認作業をしたくなっちゃうタイプなんです、私。

 

男:そっか。

 

女:別にそんなもの渡さなくたって、お店に行けばあなたに会えますし、誘うことだって、そこでできたはずなんです。

 

男:そうだね。

 

女:あれは多分、「本能」だったんだって結論に落ち着きました。

 

男:本能?

 

女:あなたの声と、背中をさすってくれた手が、とても素敵だと思いました。

 

男:うん。

 

女:酔いが醒めた時にもう一度、その、抱き合ってみた時に再確認して、再認識しました。

 

男:うん。

 

女:その声と手と、体温が、今の私には必要だと思いました。たとえそれが、現実逃避先だったとしても。

 

男:この流れは、どうしてそう思ったのか、聞いてもいいやつ?

 

女:大丈夫です、ちゃんと自分で話します。

 

男:……

 

女:先に聞いてしまいましたから、あなたのことを。

 

男:俺が一方的に話しただけだから、そこは気にしなくていいのに。

 

女:それでも、です。というより、話したかったんだと思います、やっぱり。

 

男:そっか。

 

女:といっても、何があった、とかではないんですけど。

 

男:俺と同じだ。

 

女:……嫌になったんです。急に、なにもかもが。そういえば私は、何の目標もなく生きてきたな、生きているなって、ある日急に思って。

 

男:うん。

 

女:いえ、もしかしたら上司に叱られたとか、友達とちょっと意見が食い違ったとか、そんな小さなことが重なって爆発しただけかもしれませんけど。とにかく、私は自分で心から「あれがしたい」「これがしたい」「あれが欲しい」「これが欲しい」って、特に思わないまま生きてきたんです。生きてこられた、というのがが正しいんでしょうか、この場合。

 

男:恵まれてるんだろうね、俺たちは。そういう風に思わずとも、なんとなく周りに流されておけば生きていけるんだから。

 

女:そうですね。でも、それが急に嫌になったんです。このまま生きていくのは多分簡単です。でも、そのままだと私、死ぬときに何も残らないんじゃないかって。

 

男:……

 

女:死ぬのが怖いわけではないんです。それこそ、いつか来る終着点としか思っていなくって、だから、本当に全然。ただ、死んで骨になった時、私の存在はその骨にすら宿らなくなってしまうんではないだろうかって思いました。

 

男:肉体を失ったら、その後にはなにも残らないってこと?

 

女:そんなところです。今まで私がドラマや、それこそ現実でも当り前のように見てきたような「死しても記憶として誰かの中に残る」みたいのが、もしかしたら私にはないんじゃないかって。

 

男:そっか。

 

女:当り前なんですよ。流されるまま漠然と生きてきただけなんですから。後に残るほどの情熱も、冷静さも、そういうのを何にも、誰にも向けてこなかったんですから。

 

男:それが、嫌になった?

 

女:はい、本当に、突然。

 

男:だから、そんな現実から逃げようと思った。

 

女:……強かに酔っぱらって、気持ち悪くなって、私のことなんか知らない誰かに抱かれてみる。ただ肉体的な感覚だけを貪って、自分が生きている現実を、正当化したかったのかもしれません。

 

男:「ほら、確かに私は生きているぞ」、みたいな?

 

女:そんなところです。

 

男:……俺から、改めて聞いてもいい?

 

女:はい。

 

男:それならどうして、SNSのアカウントをくれたのが「本能」だったの?

 

女:……

 

男:その逃避のしかたなら、それこそ身体を合わせる以外の情報は不必要なものだったはずだよね。

 

女:何かを「したい」とか「欲しい」って思うのって、欲求って、本能だと思うんです。

 

男:三大欲求とか、そういう感じ?

 

女:あの時、そういった欲求以外で、初めて自分から「欲しい」と感じたんだと思います。あなたの声と手と体温が。そして、「あなたのこと」が。

 

男:……

 

女:声と手と体温だけでは足りなかったんです。きっと。本能的に気付いたんです、あの時の私は。ただ……

 

男:ただ?

 

女:それを認めるのが怖かったんでしょうね。だから、気付かないふりをしていた。だってそんなの、初めての感覚だったから。初めてってことは、失敗する可能性も大いにあるわけで。未知に踏み出すのを恐れるのは、それこそ「本能」でしょう?

 

男:……なるほど。

 

女:だから、この間はあんな、感じの悪い態度を取ってしまいました。ごめんなさい。

 

男:それは別にいいんだけど。むしろその後もこうして会いに来てくれたわけだし。

 

女:やっぱりちゃんと解きほぐさないといけない気がして。

 

男:本当に、真面目だなあ。

 

女:面倒くさくてごめんなさい。

 

男:あの、さ。

 

女:……

 

男:ここからは、俺が話してもいい?

 

女:え?

 

男:ちょっと、このままだと俺があまりにもかっこ悪過ぎるから。少しだけかっこつけさせて。

 

女:……はい。

 

男:とは言ったものの、どこから話せばいいかな。

 

女:大丈夫です。

 

男:え?

 

女:好きなところからで。

 

男:……ん。

 

(少しの間)

 

男:本能って意味で言うなら、俺もきっと同じでさ。

 

女:はい。

 

男:もらったSNSのアカウントをフォローしたのは、ただの気紛れだった。あの晩君に流された余韻に近かったような気もする。そうしてたまに更新される君の投稿を見て、君のことを、本当にとるにたらない、必要もない小さなことを知っていった。

 

女:……

 

男:君に流されたままぬくぬくと、なんとなく現実離れしたこの関係を、ちょうどいい距離感を楽しんでた。

 

女:はい。

 

男:ある日、君が満月の写真をアップした。「月が綺麗ですね」って。あれを見て、俺は一瞬勘違いをしたんだ。数日前に月を見るのが好きだと言っていた俺への、その、なんらかのアプローチじゃないかって。

 

女:え?

 

男:あ、やっぱりそんなことなかったか。「月が綺麗ですね」って「アイラブユー」って意味らしいよ。昔の偉い作家が、「アイラブユー」をそう訳したとかで。

 

女:……変な誤解をさせちゃいましたね。

男:いや、それでよかったんだ。

女:……

男:自覚したからさ。自分の「本能」を。

女:……

 

男:最初の日、便器を抱えたまま泣きはらした顔で俺を見据えて、ベッドに誘ってきた君は、健気に何かを追い求める目をしていた。ほら、俺って事なかれ主義だからさ、大体はそんな雰囲気になると、めんどくさそうだなって引いちゃうんだ。でも、あの時は何故かそれができなかった。「その想いに全力で応えたい」って思った。

 

女:……それで?

 

男:ひとつひとつ君のことを知っていくごとに、君と肌を重ねるごとに、君がどんな些細なことも真面目に受け止めて、時に感動して、時に喜んで、時に悲しんだりするような人だと分かっていった。そんな君のことをもっと「知りたくて」「笑わせたくて」「話を聞いて居たくて」、「欲しい」と思ったよ。

 

女:……

 

男:ね?これも君流に言うのなら「本能」だろ?

 

女:そう、ですね。

 

男:言っていいのかどうか、ずっと迷ってた。こないだ君を怒らせた時も、俺がはっきりしないから君に色々考えさせ過ぎたのだと思った。反省したよ。今もしてる。

 

女:そんなこと

 

男:だからさ、これくらいはかっこつけさせてよ。

 

女:……

 

男:どうしようもなく陳腐な言葉だけど、俺たちはきっと、なんとなく孤独だったんだと思う。何もかもが間に合っているのに、孤独だったんだと思う。俺たちはそれでも、孤独なままでもなんとなく生きていけるし、生きてこられた。でもやっぱり、目覚めてしまった本能には抗えない。

 

女:……

 

男:俺たちいい歳だしさ。この本能を今更――順番を間違った今更になって「恋」なんて呼んでいいのかは分からないんだけど、でも、「恋」と呼ばせてくれないかな。

 

女:……はい。

 

男:本当に、今更だけど。

 

女:はい。

 

男:俺、君が好きだよ。

 

(女、大きく息をつき、涙を流す)

 

男:へたくそで、ごめんね。

 

女:いいえ。

 

男:……

 

女:いいえ。

 

男:……

 

女:すき、です。私も、あなたが。

 

男:……そっか。

 

女:嬉しいです。嬉しいけど、こわいです。自分から何かを欲しがるのって、こわいです。

 

男:そうだね。

 

女:この現実が嬉しいのに、同時にいつか失うかもしれないかもしれない、そうしたら今度こそ私は現実逃避先を見つけることすらできなくなってしまうんじゃないか、って不安が今この瞬間にも次々と生まれてきて、こわいです。

 

男:うん。だからさ、改めて、ちゃんと君の恋人として、君を抱いてもいいかな。

 

女:……

 

男:所詮俺たちは動物だよ。孤独という名の飢えを知っただけの、さ。だから、その飢えを手っ取り早く、まずは満たしてみない?

 

女:……おねがいします。

 

男:ほんと、こんな時まで君は真面目だなあ。

 

(女、泣き笑う)

 

【間】

 

―レストラン「スヴニール」

 

給仕:サラダ「あめあがり」でございます。その後、フロマージュ「トーキン」をお持ち致しますね。

 

​【間】

―サラダ「あめあがり」(0:1;0)

 

女:気だるい身体を起こす。隣で彼はまだ眠っている。事の後、何時も彼が先に寝て、後に起きる。何度も見てきたその寝顔が、今日はやけにあどけなく見えた。初めて自分から欲しいと思った男は、何故か今になって急に、いいや今更、たどたどしく私を抱いた。初めて会った時は本当に隙がなく見えたのだけれど、今こうして見ると、そのまま枕を押し付けたら簡単にその息の根を止めてしまえそうなほどに隙だらけだ。

衣擦れの音も立てぬほどに、そっとベッドを出て洗面台に向かう。隙だらけで安らかな彼の顔と違って、私の顔はそれはもうひどいものだった。頬にはいくつもの涙の筋がこびりついて、髪も乱れに乱れている。ホラー映画の序盤で派手に死ぬ女のようだ。けれど、悪くはなかった。

昨夜あれほど泣いたというのに、あくびをするとまだ涙が滲んできた。人間の身体の大半は、そういえば水分なのだったっけ。乾き損ねた雨粒のような涙を、人差し指でつっと拭う。ホテルの安っぽい照明に光るそれがなんだか宝石のように感じて、人差し指をそのまま口に含んだ。現実逃避が現実と混ざり合ってゆく味がした。

 

【間】

 

―フロマージュ「トーキン」(1:1:0)

 

男:おはよ。

 

女:ごめんなさい。また起こしちゃいましたね。起こさないように気を付けたつもりだったんですけど。

 

男:起こしてくれていいんだよ。

 

女:でも……

 

男:あんまり寝すぎると、昨夜のことが夢だったんじゃないかって不安になるじゃん。

 

女:そんなものですか?

 

男:なんとなくね。……ああそうだ、俺、今日休みだって言ったっけ?

 

女:いいえ。

 

男:そっか。じゃあ改めて。俺、今日休みだからさ、この後も一緒に過ごさない?

 

女:はい。

 

男:何しようか。水族館行ってみたいけど、この間行ったばっかりだったよね。

 

女:別にいいですよ。私、水族館好きですし。

 

男:知ってる。

 

女:ですよね。ああそう、この間私が行ったところとは違うんですけど、行ってみたい水族館があって。

 

男:へえ?

 

女:シロイルカがいるんですって。私、好きなんです。シロイルカ。いつもニコニコ幸せそうに笑っているように見えて、可愛くて。

男:そっか。そうしたら、そこ行く?

 

女:でも……

 

男:ん?

 

女:あの、別にここでじゃなくてもいいんですけど、今日はできればあなたと一緒に色んなことを話したいな、って。

 

男:……

 

女:あ、ちょっと重かったですかね……

 

男:ううん、可愛いこと言うなあって思って。

 

女:あ、えっと

 

(男、微笑む)

 

男:そうだね、俺たち、本当にまだ知らないことの方が多いもんな。うん、じゃあ今日はゆっくり食事して散歩して、色んなこと、話そうか。

 

女:はい。

 

男:何もかもを知る必要ってのもないのかもしれないけど、それでも、君について知らないことなんて、ほんの少しでいいと思うよ。

 

女:……女慣れしていないって本当は嘘でしょ?

 

男:今更それ言う?

 

女:ごめんなさい、意地悪でした。どっちでもいいです、そこのところは、もう。

 

【間】

 

―レストラン「スヴニール」

 

 

給仕:デセール「パウダーシュガーに足跡を」、そしてコーヒー「琥珀と白のマーブル」をお持ち致しました。

 

女:ふふ。

 

給仕:どうかなされましたか?

 

女:だってそんなかしこまったあなたを、私初めて見たんですもの。

 

給仕:憧れだったんだよ、フレンチレストランの給仕になることがさ。シェフが考え抜いたストーリーと想いの乗った美しい一皿一皿を、それを心待ちにしているお客さんのところに粛々と運ぶって、素敵だろう?

 

女:そうね、とっても素敵だったわ。

 

給仕:思い出してくれた?俺のこと。

 

女:そのためのコースだったのでしょう?

 

給仕:まあね。皿の上に、俺の一番……必死だった記憶を乗せてもらったよ。

 

女:必死、ね。本当にその通りだわ。

 

給仕:君が、その生きてきた痕跡をひとつひとつ手放してゆくのを見てきた。俺を忘れてしまってゆくのを見てきた。だから、一番色濃く残っているものを、と思って。

 

女:あなたが行ってしまった時も、私あなたのことを思い出せなかった。ごめんなさいね。

 

給仕:それより俺は、後に何も残らないのを何より恐れる君が、孤独に震えているんじゃないかと心配でたまらなかったよ。

 

女:だからこうして、私のためのお皿を用意して待っていてくれたのね。

 

給仕:足跡がなくなってしまったら、俺はその都度皿の上に、パウダーシュガーを振りかけるよ。そうして何度でも、足跡をつければいい。そうだろう?

 

女:相変わらずロマンチストね。

 

給仕:かっこつけさせてくれよ。

 

女:でもおかげで、思い出せた。私の生きてきた後に何が残っているのか、もしかしたら何も残っていないのか、もはや知る術はないけれど、あなたがこうして待っていてくれたから、別にそう怖くないわ。

 

給仕:そうか。

 

―カフェ「琥珀と白のマーブル」(1:1:0)

 

女:……ミルクをもらえる?

 

給仕:もちろんでございます。

 

(女、コーヒーにミルクを注ぐ)

 

給仕:君はいつもそうだった。

 

女:何が?

 

給仕:コーヒーにミルクが溶けるのを眺めていた。スプーンで混ぜることをせずに。

 

女:なんだか安心するのよ。

 

給仕:うん。

 

女:何の力も借りずに、勝手にほどけて混ざってゆくのを見ているのが。

 

給仕:そうだね。

 

女:ねえ。

 

給仕:ん?

 

女:このコーヒーを飲み終えてしまったら、私はひとりでこのレストランを出なければいけないの?

 

給仕:そんな馬鹿な話があるかい。俺は今日のこのコースの給仕をしたら「上がり」だよ。

 

女:じゃあ、一緒に行けるわね。

 

給仕:ああ。でも焦らないでいいからね。ゆっくり飲むといい。

 

女:そうさせてもらうわ。

(少しの間)

女:……ああ、美味しかった。


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【幕】

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