#21「マヨナカサカナ」
(♂1:♀1:不問0)上演時間20~30分
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ヒナコ
【ヒナコ】女性
夜更かしの疲れた会社員。タイチからの電話を受けた「その晩」は死のうと思っていた。
タイチ
【タイチ】男性
真夜中に手当たり次第に適当な番号に電話を掛ける青年。
「その晩」も適当な番号に電話を掛け、ヒナコに繋がった。
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―深夜
(ぼんやりと起きているヒナコの携帯が鳴る)
ヒナコ:もしもし?
タイチ:あ、お姉さんだ。
ヒナコ:は?
タイチ:はじめまして。俺、タイチ。良かったらお話ししよう?
(ヒナコ、小さくため息をつき、通話終了ボタンを押そうとする)
タイチ:ああ、切らないで。別にやましい気持ちはないから。
ヒナコ:いたずら電話にやましくないものなんか、ないと思うんだけど。
タイチ:俺、ただ誰かと話したかっただけなんだ。だから少しだけ、ほらもうすぐ夜が明けるでしょ?それまででいいからさ、付き合ってよ。
ヒナコ:……
タイチ:やっぱりだめだよね。ごめんねお姉さん、切るよ。
ヒナコ:あんた、いつもこんなことしてんの?
タイチ:え?
ヒナコ:答えなさいよ。
タイチ:お説教なら聞きたくないんだけど。
ヒナコ:お説教じゃないわよ。単なる好奇心。あんたと一緒。
タイチ:……いつもじゃないけど、たまにしてる。無性に誰かと話したくなる時があるんだ。だから、そんな時は適当な番号を押して、とりあえず誰かに繋げてみるんだ。
ヒナコ:それで誰かと話せたことあるの?
タイチ:ほとんどは出てくれないか、何も言わずに切られるかなあ。めちゃくちゃ怒られたこともあったよ。
ヒナコ:だろうね。
タイチ:でも、本当にたまに、こうやってお姉さんみたいにちゃんと話してくれる人もいたよ。
ヒナコ:ふぅん。
タイチ:いつだったかなぁ。一人暮らしのおばあさんに繋がったことがあってさ。すげえ優しかった。
ヒナコ:良かったじゃない。それならまたそのおばあさんにかければ良かったのに。
タイチ:うん、しばらくはそうしてたんだけど。いつからか、繋がらなくなっちゃって。
ヒナコ:……
タイチ:お姉さんが今何を考えたか当てようか?
ヒナコ:こんなの簡単でしょ。
タイチ:まあね。でも俺はそうは思わない。きっと番号を新しいのに変えたんだ。携帯が壊れたかなんかでさ。おばあさん、身寄りがないって言ってたから、俺の番号、分からなくなっちゃったんじゃないかな。
ヒナコ:ロマンチストかよ。
タイチ:だってその方が寂しくないでしょ?俺も、おばあさんも。
ヒナコ:人間は寂しい生き物よ。
タイチ:お姉さん、ひねくれてるね。
ヒナコ:悪かったわね。
タイチ:俺はさ、自分の気に入った人を、たとえ自分の想像のなかだったとしても、殺したくないんだ。
ヒナコ:優しいんだ。
タイチ:怖がりなんだよ。
ヒナコ:納得。
タイチ:でしょう?
ヒナコ:そんなに誰かと繋がりたいなら、マッチングアプリでもなんでも使って出会えばいいじゃん、って思ったけど、そうしないのは怖いからよね。
タイチ:そうなるのかな、多分。
ヒナコ:知らないけど。
タイチ:適当だなぁ。
ヒナコ:ひねくれてるからね。
タイチ:根に持ってるじゃん。
ヒナコ:実際に顔を合わせて、言葉を交わして、なんなら肌も重ねると、もうすんごくリアルじゃない?
タイチ:そうだね。
ヒナコ:そうすると、どうしてもリアルな傷が増えていく。だから、あんたのそのやり方は正解なのかも。一時(いっとき)の会話で終わり。それ以上は詮索しない。切りたくなれば切ればいい。心のなかできれいなものだけ残して、生きていける。悪くはないと思うよ。
タイチ:お姉さん、疲れてるね。
ヒナコ:こんな真夜中に起きてる女に、疲れてない女なんかいないわよ。
タイチ:なるほど。
ヒナコ:……あのね。
タイチ:なに?
ヒナコ:あんたが電話かけてきたまさにその瞬間、私死のうとしてたの。
タイチ:そうなの?
ヒナコ:驚かないのね。
タイチ:真夜中に起きてる女は疲れてるんでしょ?
ヒナコ:そうだったわね。
タイチ:で、俺のせいで死に損ねたってわけだ。
ヒナコ:そういうこと。
タイチ:それなら良かった。
ヒナコ:どうして?
タイチ:お姉さんいい人だから、死なないで良かった、って。
ヒナコ:馬鹿にしてるの?
タイチ:違うよ。本音、本音。こうやって話してくれたの、例のおばあさん以来だし。
ヒナコ:二人目ってこと?打率ひっく。
タイチ:うん。だから奇跡的ないい人ってことになるじゃん。
ヒナコ:いい人なんかじゃないって。死に損ねたから、時間と気持ちを持て余してた、それだけ。
タイチ:それでも、俺はこうして夜を越すことができる。いいじゃん、いい人ってことにさせてよ。
ヒナコ:勝手にすれば。ほら、そろそろ夜が明ける時間じゃない?もういいでしょ?
タイチ:死なないでよね。
ヒナコ:死んだように眠るだけよ。
タイチ:そっか。
タイチ:お姉さん、また電話してもいい?
ヒナコ:勝手にすれば?
タイチ:うん、ありがとう。ゆっくり寝てね。
ヒナコ:はいはい。
タイチ:おやすみなさい。
【間】
―またある日の深夜
(やはりぼんやりと起きているヒナコの携帯が鳴る)
ヒナコ:はい。
タイチ:お姉さん、久しぶり。
ヒナコ:どちらさまでしたっけ?
タイチ:あ、ひどいなぁ。分かってるくせに。
ヒナコ:ばれたか。
タイチ:ばれるよ。
(ヒナコ、くすりと笑う)
ヒナコ:で、あれからどう?誰かと繋がることはできた?
タイチ:それが全然。
ヒナコ:だろうね。
タイチ:お姉さんは?今日は死のうとしてない?
ヒナコ:今日は雨だからしてない。
タイチ:何それ。
ヒナコ:朝日が顔を出すか出さないかの、ギリギリの明るさのなかで死ぬのが理想だから。
タイチ:お姉さんも大概ロマンチストだね。
ヒナコ:ただでさえ疲れてるのに、真っ暗闇のなかでひとり死ぬのなんて惨めすぎるじゃない。
タイチ:さみしいの?
ヒナコ:さあね。
タイチ:慰めてあげよっか?
ヒナコ:ついに本性を現したな。
タイチ:ええ?
ヒナコ:やましい気持ちはないんじゃなかったっけ?
タイチ:うん、ないよ。あ、なにお姉さん、エロいこと考えたの?
ヒナコ:違うの?
タイチ:いや、エロいことでもいいんだけどさ。
ヒナコ:そらみたことか。
タイチ:でも今のお姉さんに必要なのは、そういうことじゃないでしょ?
ヒナコ:じゃあ君は私に何をしてくれるのかな。
タイチ:あ、名前教えて。お姉さんの。「お姉さん」じゃなんか他人行儀じゃん。
ヒナコ:他人でしょうが。
タイチ:適当な名前でいいからさ。
ヒナコ:……ヒナコ。
タイチ:オッケー。じゃあヒナコさん、ちょっと毛布にくるまってみて。
ヒナコ:はあ?
タイチ:いいからいいから。
(ヒナコは言われた通り毛布を身体に巻き付ける)
ヒナコ:はい、これでいい?
タイチ:うん。……はい、俺は今ヒナコさんをぎゅってしています。
ヒナコ:え?
タイチ:よしよし。
ヒナコ:……何これ。
タイチ:ヒナコさんは優しいね。こんな素性の知れない男に優しく付き合ってくれる。会話のノリもいいしさ。あと、ツッコミ気質の女性って、俺好きだよ。
ヒナコ:ねえ。
タイチ:ヒナコさん、きっと頑張り屋さんなんだね。だからこんな真夜中に疲れちゃうんだ。みんな寝てる時間なのに、ひとりで疲れて。だからさ、俺が朝日の代わりにヒナコさんを抱きしめるよ。
ヒナコ:いつまで続くの、これ。
タイチ:朝日はヒナコさんが死ぬのを見届けるだけかもしれないけど、俺はヒナコさんが死なないように、この手を放さないよ。
ヒナコ:やめてよ。
(しばしの沈黙)
タイチ:……どう?ちょっと楽しくなかった?
ヒナコ:ばかみたいだと思ったわ。
タイチ:あ、ひっでぇ。
ヒナコ:そんなんで慰められると思ってんの?
タイチ:いい案だと思ったんだけどなあ。
ヒナコ:笑うのをこらえるのに必死だったわ。
タイチ:じゃあ成功だ。
ヒナコ:なんでよ。
タイチ:だって笑いそうだったんでしょ?楽しかったってことじゃん。
ヒナコ:慰められはしなかったけど?
タイチ:いいのいいの。ヒナコさんが笑ったなら、それで成功。
ヒナコ:自分に甘すぎない?
タイチ:リアルじゃないんだからそれでいいじゃん。楽しんだもん勝ち。
ヒナコ:ほんとばかみたい。
タイチ:よしよし、いい子いい子。
ヒナコ:ちょ、やめてったら。
タイチ:なんなら「ぎゅー」もつけようか?
ヒナコ:やめて笑う。
タイチ:ぎゅー!
ヒナコ:あははははは!だっさ!キッズのやりとりじゃん!
タイチ:ここから先はアダルトモードになるので、課金が必要です。
ヒナコ:スマホアプリで見たことあるやつ!
タイチ:え、ヒナコさんそういうのやるんだ?
ヒナコ:何よ悪い?
タイチ:ううん、ひとつヒナコさんのこと知れたなぁ、って。
ヒナコ:だからあんたはなんでそんなに、いちいち漫画みたいなことを言うわけ?
タイチ:それは俺に言われましても。
ヒナコ:もうだめ、ほんと笑う。ダサくて笑う。
タイチ:へへ。
(とその時、ヒナコの部屋の壁がドンと鳴る。)
ヒナコ:やっば、隣の人に怒られた。
タイチ:壁ドンってやつ?
ヒナコ:そそ。壁うっすいから。壁ドンなんて初めてされた。
タイチ:俺が初めての人ってわけですね。
ヒナコ:え、やだ気持ち悪い。
タイチ:ミもフタもない言い方。
ヒナコ:ほんと、ばかみたい。
タイチ:よく眠れそう?
ヒナコ:あれ、もうそんな時間?
タイチ:うん。どう?ちゃんと眠い?
ヒナコ:さあね。こればっかりは布団に入ってみないことには。
タイチ:眠るまでよしよししてあげようか?
ヒナコ:笑って眠れなくなる。
タイチ:それはだめだね。
ヒナコ:勘弁してつかぁさい。
タイチ:それじゃ、今夜はこの辺で。
ヒナコ:ん、おやすみ。
タイチ:おやすみなさい、ヒナコさん。
【間】
―さらにある日の深夜
(ヒナコの携帯が鳴る。)
ヒナコ:はいよ。
タイチ:あ、ヒナコさん、今日はすぐ出てくれた。
ヒナコ:ちょうどスマホ触ってたから。
タイチ:こないだ言ってたスマホゲーム?
ヒナコ:それじゃない。
タイチ:なあんだ。
ヒナコ:なんだとはなんだ。
タイチ:いや、単純に興味があっただけだけど。
ヒナコ:女性向け恋愛ゲームに?
タイチ:うん。
ヒナコ:なんで?
タイチ:ヒナコさんを笑わせるセリフの参考にしようと思って。
ヒナコ:やめて。
(くすくすと笑い合う二人)
タイチ:まあ冗談はさておき。今日はどう?
ヒナコ:いつも通りよ。仕事から帰って、ひとりでお酒飲んで、いつ死のうかなって考えてた。
タイチ:まだ死にたいの?
ヒナコ:いけない?
タイチ:……ひとつだけ踏み込んでいい?
ヒナコ:どうぞ。
タイチ:あれ、意外。絶対怒ると思った。
ヒナコ:どうせ回線上だけの繋がりだもの。好きにすればいいよ。
タイチ:んじゃお言葉に甘えて。ヒナコさんはさ、なんでそんなに死にたいの?
ヒナコ:お説教?
タイチ:あ、ほら。やっぱり怒るじゃん。
ヒナコ:お説教なら聞きたくないだけ。
タイチ:お説教なんてするつもりはないよ。だから、教えて。
ヒナコ:絶対笑うよ。
タイチ:それは聞いてからの話だから。
(ヒナコ、観念したように小さくため息をつく)
ヒナコ:……単に疲れただけよ。生きていくのに。
タイチ:うん。
ヒナコ:誰も私のことなんか見向きもしない。必要とされるのは私のこのカラダだけ。でもこんなもの、いくらでも替えがきく。そう思ったら息苦しくて仕方なかった。だったら別に、私なんていらなくない?って。
タイチ:失恋でもした?
ヒナコ:まだしてない。
タイチ:まだ、ってことは、なんとなく満たされない恋愛をしているわけだ。
ヒナコ:そうなるのかな。
タイチ:彼は見向きもしてくれない?
ヒナコ:別に彼氏じゃないからね。
タイチ:マジ?
ヒナコ:私は、彼氏のつもりだったんだけど。
タイチ:ほかに女がいた系?
ヒナコ:というか、そっちが本命だった系。
タイチ:なるほどね。
ヒナコ:会社でも結局私はただの歯車で。毎日残業して頑張ったところで、なんにも残せない。私が今この瞬間いなくなっても、新しい子を入れればいいだけで、多分すぐにその穴は埋まる。つまりね、この世界は結局、椅子取りゲームなんだよ。
タイチ:椅子取りゲーム?
ヒナコ:意味のある椅子ってのがあってさ。決して数は少なくないんだろうけど、全員分はない。だからこうやって座れない人間が出てくる。そんな人間はどうなると思う?
タイチ:さみしいね。
ヒナコ:そう。だからなんとか自分で椅子を作ろうとしてみるわけ。
タイチ:それはいいことなんじゃない?
ヒナコ:でもね、元々用意された椅子にすら座れない人間が、そんなもの作れるわけないの。だから結局、さみしいまま途方にくれるしかない。
タイチ:群れからはぐれた魚みたいだね。小学校の教科書でそんなのなかったっけ?
ヒナコ:あったかもしれない。
タイチ:結局あれは、別の魚の群れのなかで居場所を見つける話だったと思うけど。
ヒナコ:そう、だから私はその話が嫌い。結局夢物語よ。
タイチ:夢物語かぁ。
ヒナコ:気まぐれにスマホアプリで男に口説かれてみたところで、結局はまやかし。だってその男は、私を口説いてはくれるけど、私の話を聞いてはくれないもの。みんなに同じことを言うだけ。
タイチ:こじらせてるなあ。
ヒナコ:なんとでも言って。
(少しの間)
タイチ:……水族館の魚だね。
ヒナコ:そのココロは?
タイチ:ニセモノの海のなかで、本当の意味で「生きる」ことを見失ってる。放棄してる、とも言えるかな。
ヒナコ:それで?
タイチ:海に戻る術も知らないから……というか、そんなことできないから、ただただ泳ぐ。死んではいないけど、生きてもいない。どっちつかずだから、なんとなく死にたくなるのかな、って。
ヒナコ:全然分かんないんだけど。
タイチ:死ねば誰かに見つけてもらえるじゃない?その瞬間は確実に自分に視線が集まる。ヒナコさんはそうすることで海に戻ろうとしてるように、俺は感じた。
ヒナコ:ロマンチストの極みね。
タイチ:だからどうって話でもないんだけどね。俺の感想ってだけだから。
ヒナコ:……ひとつ、思い出したことがあるわ。
タイチ:何?
ヒナコ:彼氏……いや、正確には彼氏ではないんだけど、そいつにさ、言われたことがあるんだ。
タイチ:なんて?
ヒナコ:「お前いつも顔色悪くて、死んだ魚みてぇ」って。
タイチ:ごめん、笑ってもいい?
ヒナコ:勝手にすれば。
タイチ:だってさ、ひっどいじゃん、それ。
ヒナコ:ひっどいわよ。すんごいショックだったんだから。
タイチ:なんでそんな男に夢見てんの。
ヒナコ:あんたの水族館の例えで言うなら、そいつが唯一の、私という地味な魚に目を向ける客だったからよ。
タイチ:可愛いなあ、ヒナコさん。
ヒナコ:そういうの、ナシ。
タイチ:そんな男、「殺し」ちゃえばいいのに。
ヒナコ:……え?
タイチ:俺さ、最初にヒナコさんに繋がった日に言ったじゃん?「自分の気に入った人は、自分の心のなかであったとしても殺したくない」って。
ヒナコ:うん。
タイチ:でもさ、気に入らない相手は殺してもいいと思ってるんだ。
ヒナコ:いきなり物騒なこと言わないで。
タイチ:だって俺、人殺しだもん。
ヒナコ:は?
タイチ:去年全部終わったばっかり。
ヒナコ:……うそ、でしょ?
タイチ:嘘じゃないよ。
ヒナコ:誰を殺したの?
タイチ:その時の恋人。
ヒナコ:どうして?
タイチ:俺さ、彼女のことすごく大切で、絶対に守りたくて、幸せにしたかったんだ。
ヒナコ:……
タイチ:なのにさ、彼女は俺のこと「もういらない」って言ったんだ。俺に守られていると身動きが取れなくなるから、って。
ヒナコ:なにそれ。
タイチ:俺にも分からないよ。だから、必死で聞いたんだ。それって結局どういうこと?って。でも同じセリフしか返ってこなくて。そしてあの日。歩道橋の階段を上り切ったところで、俺、彼女とばったり会ったんだ。彼女は友達といたんだけど、俺の顔を見るなりすごく嫌な顔して、こう言ったよ。「まさか待ち伏せしてたとかじゃないよね?ほんとそういうところ重くてきもいんだけど」。
ヒナコ:そんな……
タイチ:俺、必死に愛したつもりだったのがすごく恥ずかしくなってきてさ、彼女につかみかかったんだ。彼女と友達は俺をふりほどこうとして揉み合いになった。景色がぐるぐる回ってた。下を走る車のライトが、パトカーや救急車の回転灯みたいだった。頭のどこかは変に冷静で、「なんだかメリーゴーランドに乗ってるみたいだ」なんて思ってたっけ。そうしているうちに、俺がふりあげた右腕が彼女を強く押してさ、ぽかんとした顔で彼女は階段を転げ落ちていった。「変な顔」。あんなに大好きで可愛かった彼女の顔を見て、俺はそう言って笑ったんだ。友達の悲鳴と俺の笑い声、どっちが大きかったんだろう、って今でも思うよ。
(少しの間)
ヒナコ:ごめん、なんて言っていいか分からない。
タイチ:そりゃそうだよね。幻滅した?
ヒナコ:そうじゃない。だってそんなのって、ない。
タイチ:それでも、結果だけ見れば俺は犯罪者だよ。
ヒナコ:そうかもしれないけど。
タイチ:でもね、心の中で「俺は彼女を――俺を気持ち悪いといった彼女を殺したんだ」って自覚したら、心にずっと住みついていた彼女も死んで、さあっと気も晴れたんだ。ああ、俺疲れてたんだな。でもすっきりしたな、って思った。だからさ。
ヒナコ:私も彼を殺しちゃえって?
タイチ:そういうこと。
ヒナコ:そんなこと、できるわけがないでしょう。それに私は、きっとそんな風にすっきりできない。
タイチ:まあ普通はそうだよね。自分の手が血で汚れるわけだしさ。矛盾かもしれないけど、あの日彼女を突き落とした時の右手の感触を、俺は今でも忘れられなくて、それ以来ずっと左利き。右手を使うの、こわいんだ。心はすっきりしているのに、身体がそこについていかなくて。
ヒナコ:当り前よ、そんなの。だったらなんでそういうこと言うの?私を困らせたいの?
タイチ:違うよ。俺が言いたいのはさ、実際に殺すなんてのは無理だから、心の中でだけ殺してしまえばいいんだよってこと。
ヒナコ:意味が分からないんだけど。
タイチ:彼はヒナコさんのことを雑に扱いながら、それでもヒナコさんが離れないことに優越感を抱いているわけ。だからどんどん調子に乗るんだよ。
ヒナコ:それで?
タイチ:そういう時の彼の顔、好きって言い切れる?
ヒナコ:そこまで私も馬鹿じゃないわ。
タイチ:そうだよね、だからヒナコさんはひとりでひっそりと死のうとしてたわけだし。だけど、それなら話は早いよ。
ヒナコ:どうして?
タイチ:自分で自分の命を絶とうとする勇気があるなら、きっと殺意を持つ方が簡単だと思う。実際に行動に移す勇気となると話は別だけど、これは心の中の話だから。心の中で、ヒナコさんのしたいように痛めつけてやればいいんだ。みっともない虫けらにするみたいにさ。
ヒナコ:なんとなく、言いたいことは分かった気がする。
タイチ:まあ俺の考えるひとつの手段、ってだけ。
(ヒナコ、深いため息をつく)
ヒナコ:……確かに、想像してみたら少し楽しかった。
タイチ:でしょう?ヒナコさんなら、分かってくれると思った。
ヒナコ:私も殺人犯予備軍ってことになるのかしらね。
タイチ:こんなの、きっとみんなやってるよ。
タイチ:みんな心に、水族館では持て余すような獰猛な魚を飼ってるんだから。
ヒナコ:妙な説得力よね、あんたが言うと。
タイチ:まあおかげで、今も借金まみれだけどね。
ヒナコ:賠償金とか?
タイチ:そういうこと。彼女の治療費がそんなにかからなかったのが救いかな。
ヒナコ:え?
タイチ:ん?
ヒナコ:ちょっと待って、「治療費」?
タイチ:うん。
ヒナコ:彼女、死んだんじゃなかったの?
タイチ:俺、非力なんだろうね。彼女は階段を何段か落ちただけで、自力で手すりにつかまったよ。
ヒナコ:はあぁ?
タイチ:右足の骨折で全治三か月。
ヒナコ:あんた、さっき「人殺し」って。
タイチ:あの時、俺は確かに「彼女を殺した」って思ったんだよ。心の中で意図的に、彼女を殺して消したんだからね。だから、間違ってないでしょ?
ヒナコ:あんたって……あんたって……!
タイチ:ええ、そこ怒るところ!?
ヒナコ:怒んないわよ!
タイチ:怒ってるじゃん。
ヒナコ:そうじゃない。
タイチ:じゃあ何?
ヒナコ:分かんない。
タイチ:ええ?
ヒナコ:でも、なんか安心してる。
タイチ:安心?
ヒナコ:あんたは今も、彼女を物理的に傷つけてしまったことに罪悪感を感じているんだろうけどさ、本当に殺してしまっていたら、きっともっとつらいわけじゃん。
タイチ:……かもね。
ヒナコ:だから、あんたがそんな思いをしなくて良かったな、って。
タイチ:ヒナコさん、やっぱり可愛いね。
ヒナコ:だから、そういうのはいいって。
タイチ:今のは結構本気で口説くつもりで言ってるんだけど。
ヒナコ:そういうの、今はいらない。
タイチ:そっか。
ヒナコ:……私の心の中に彼のお墓が立ったら、考えてあげてもいい。
タイチ:マジ?
ヒナコ:うそ。
タイチ:え、ひどい。
ヒナコ:言ったじゃない。程よくリアルじゃない、これくらいがいいのよ。
タイチ:そうかなぁ。
ヒナコ:人殺し同士なんて、誰もお客さんのいない、真夜中の水族館でふわふわしてるのがお似合いよ。
タイチ:……ねえヒナコさん。
ヒナコ:なあに?
タイチ:明日も電話していい?
ヒナコ:……真夜中は寝てるかもしれないから、もう少し早い時間にして。タイチも、もう少し早く寝るようにしなさいよね。
タイチ:分かった。それじゃ、ヒナコさん、またね。
ヒナコ:うん、おやすみ。
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【幕】