#61「遺書」
(♂1:♀1:不問0)上演時間40~50分
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砂霧要
【さぎりかなめ】男性
とある作家。悠(ゆう)という名の、6歳の一人娘がいる。
ある日突然担当編集である海里を呼び出し、自らを殺せと要求する。
海里八千代
【かいりやちよ】女性
作家「砂霧要」の担当編集。要のファン。
ある日砂霧に呼び出され、自らを殺すよう要求される。
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――砂霧要の自宅
(砂霧と海里が向かい合って座っている)
海里:砂霧先生。
砂霧:ん?
海里:貴方が何を仰っているのか、私には分かりません。
砂霧:そうかい?難しい言葉は、何一つ使っていないはずだけど。
海里:すぐそうやってはぐらかす。
砂霧:すまない。
海里:私には、分かりません。
砂霧:なぜ?
海里:意味が分かりません。
砂霧:僕を殺してくれ。
海里:分かりません。
砂霧:「いやだ」ではなく「分からない」、か。
海里:勿論答えは「いやだ」です。ですがその前に砂霧先生、何故貴方が急にそんな――自らを殺してくれだなんて言うのか、私にはそれが理解できません。だから「分からない」と。
砂霧:つまり、理由が分かれば答えが覆る可能性もある、と?
海里:……分かりません。
砂霧:「分からない」ばかりだな。
海里:だって
砂霧:僕はね、もう、死にかけているんだ。
海里:え?
砂霧:だから君の手で、引導を渡してもらおうと思った。
海里:ご病気か、何かですか。
砂霧:病気……病気……。まあ、そんなものなのかもしれないな。いいや、そんなたいそうなものじゃない。もっとつまらないものだよ。
海里:やっぱり、意味が分かりません。
砂霧:そうか。
海里:そうやって作家然とした言葉で煙に巻くの、やめてください。
砂霧:その台詞は、何度目だったかな。
海里:さあ。
砂霧:でも僕は、そんな風にしか物が言えない。
海里:ええ。ようやくそれが分かってきたので、最近は言わないようにしていたんですけど。
砂霧:僕を、殺してくれ。
海里:一体どうしてしまったんですか。貴方がそんなこと。似合いませんよ。
砂霧:君の眼に、僕はそう映るかい?
海里:繊細な方なのは存じています。貴方の作品の根底には、いつも「人間」への、濁りのない、それ故徹底的に細部まで、どんな微弱な心の動きをも見逃すまいとする眼差しが感じられました。
砂霧:そうか。
海里:そして、「ただ生きている」ことへの、賛美の眼差しも。
砂霧:……
海里:だからこそ、そんな貴方が、生きるのを放棄するようなことを言うなんて……似合いませんよ、やっぱり。
砂霧:まあ、僕も正直、そう思うよ。
海里:それなら、何故。
(少しの間)
(室内に外から子供が笑う声が満ちる)
砂霧:……書けないんだ。
海里:え?
砂霧:僕はもう、書けない。
海里:待ってください。
砂霧:書けないんだ。
(少しの間)
海里:……「死にかけている」と仰ったのは、そういう意味なんですか。
砂霧:……ああ。
海里:少し……少し、休養の時間を取りましょう。やっぱりほら、執筆って、疲れますし。
砂霧:……
海里:スランプって、誰にでもありますから。大丈夫。大丈夫ですよ。
砂霧:海里くん。
海里:上には、私からちゃんと申し伝えておきますし。
砂霧:海里くん。
(砂霧、海里の手元に原稿用紙の束を放る)
海里:これ……
砂霧:僕の、最新作だ。
海里:……書けているじゃないですか。
砂霧:読んでくれ。
海里:……「遺書」。
砂霧:読んでくれ。
海里:先生、このタイトル
砂霧:僕の作品では、別段珍しくもないだろう?そんなタイトル。
海里:ええ、そう……そう、ですね。すみません。
砂霧:とにかく、今はただ、読んでくれないか。
海里:分かりました。それでは……。
(子供の騒ぐ声や犬が吠える声に、時折かさりかさりと、海里が原稿をめくる音が重なる)
【間】
海里:……拝読しました。
砂霧:うん。
海里:書けないなんて、嘘ばっかり。
砂霧:……
海里:面白かったです。
砂霧:そうかい?
海里:幸せの絶頂で突然失踪した男と、残された妻と子供。テーマとしてはありふれたものだとは思いますが、主人公である妻の絶望と、愛する子供のため、それでも生きてゆかねばならないというちぐはぐな心理描写が、子供と毎日見上げる空の模様と、主人公が趣味で撮り続ける写真というモチーフを絡めて描かれているところや、男が去った理由が最後まで明かされず、こちらに考察の余地を残してくれているところなんかが、私はとても好きです。いつもの砂霧節(ぶし)だなあ、なんて思いながら読ませていただきました。
(砂霧、ふっと笑う)
海里:なんですか?
砂霧:君は本当にいつも、僕の作品を読むと饒舌になるなあ、と思って。
海里:……編集者であると同時に、一ファンなんですから、しかたないじゃないですか。
砂霧:そうか。
海里:いつも言っているでしょう?貴方の作品を、世に出るよりも先に読めるの、本当に光栄に思っているんですよ、私。
砂霧:……だからだよ。
海里:何がですか?
砂霧:だから、君に僕を殺して欲しいと思った。
海里:まだそんなことを。
砂霧:僕を、殺してくれないか。
海里:書けているじゃないですか。ちゃんと。
砂霧:これは、「遺書」だ。
海里:……タイトルの話、ですよね。
砂霧:いいや、これは僕なりの、僕のやり方で書いた「遺書」だよ。
海里:……
(少しの間)
砂霧:真実なんだ。
海里:え?
砂霧:この作品は全て、真実なんだ。
海里:……
砂霧:申し訳程度に脚色はしたけれど、ね。
海里:だから、タイトルが「遺書」……なんですか?
砂霧:その通り。
海里:作品では、残された妻が死にたくなるような思いを抱えながらも、美しい夕焼け空を指して微笑む子供を見て我に返り、男を愛した「妻」としての、「女」としての自分を死なせ、ただ「子供の母」として生きるためにそっとソネット――14行の詩を残して家族の思い出が残る家を去るところで終わっていました。その詩こそが、タイトルの「遺書」。そう思っていましたが……もしかして……まさか……
砂霧:正解だよ。
海里:……
砂霧:これは、僕の物語だ。
海里:奥様は……
砂霧:……消えた。もう一週間経つ。
海里:なぜ……
砂霧:分からない。
海里:警察、には?
砂霧:届けは出した。が、成人女性の家出では、ろくに捜査はしてもらえないそうだ。
海里:……
砂霧:関係機関にも調査をお願いした。けれど、なんの成果も上がらなかった。数枚の衣服と財布だけ持って、他は何もかも残したまま、妻は消えてしまったんだ。
海里:そんな……
砂霧:本当に忽然と、消えてしまったんだ。
海里:……
砂霧:この作品において、夫が何故失踪したのかが最後まで明かされないのも、僕が妻の失踪の理由が分からないというだけの話なんだ。
海里:でも先生、先々月にご結婚されたばかりで
砂霧:「事実は小説より奇なり」とは、よく言ったものだよね。
海里:お嬢さんは……
砂霧:悠(ゆう)は……まだ小さいが、異変には気付いているようだ。少し情緒不安定な様子がある。時折妻の名を呼んで泣いてみたり、そうかと思えば翌朝には何もなかったかのように明るく、妻は何時に帰ってくるかなんて聞いてきたりする。六つの子には、少しきつい現実だったようだけれど、なんとかして気持ちの均衡を保とうとしているように、僕には見えるよ。
海里:私、奥様とは、お付き合いされているときに一度しかお会いしたことはありませんでしたけど、私の目から見ても、すごく……すごく先生と悠ちゃんを愛してらしたように見えました。
砂霧:そうだな。僕も、そう思っていた。失踪の前日にも、妻は悠の寝顔を見て、幸せだと呟いていたから。
海里:じゃあなおさら、どうして……
砂霧:これ。
(砂霧、海里の前に一枚の紙を置く)
海里:「貴方も、悠も愛してる。でもどうしようもなくなって。ごめんなさい。幸せでした。ごめんなさい」……これ、小説にも
砂霧:ああ、そのまま使った。
海里:……本当、なんですね。
砂霧:ああ。
海里:本当に、これは貴方の物語なんですね。
砂霧:……もう分かるだろう?僕が書けないと言った理由が。
海里:……
砂霧:作家ってのはさ、自分の想像力で実らせた果実を収穫し、文字にするものなんだと、僕は思っている。だからそれをやめて、自らの体験や主義主張、気持ちをそのまま、生のまま綴るようになったら終わりなんだよ。
海里:先生……
砂霧:樹が自らの幹から樹皮(じゅひ)を剥いで、剥ぎ続けて……そうしたらその樹はどうなる。
海里:やがて、倒れます。
砂霧:そういうこと。
海里:……先生。
砂霧:ん?
海里:もう、先生からは何も実らないんですか?
砂霧:実らない。
海里:どうしてそう言い切れるんですか。
砂霧:君も、往生際が悪いね。
海里:だって私は、先生のファンですから。最初に先生の作品を読んだ時から、ずっとファンでしたから。
砂霧:……
海里:あらゆるジャンルを自由に行き来して、伸び伸びと書いてらしたじゃないですか。どんな作品であっても、そこからは、貴方が本当に書くことが好きなのだということが伝わりました。
砂霧:ああ。それは、嘘じゃない。
海里:私、嫉妬したこともあるんですよ。この人、全然私……私たちファンの方なんか見ちゃいない、って。
砂霧:嫉妬とは、おそろしいな。
海里:でも、それでいいんだと思っていました。それが砂霧要の魅力なんだって。その瞳の奥には色鮮やかな世界がどこまでも広がっていて、だからこそ、こちらを見てくれない。その世界だけを綺麗に切り取ってこちらに見せてくれても、自身の姿は決して見せてくれない。そんな人だから、私たちはより貴方を、貴方の世界を知ろうとページをめくり続けるんです。
砂霧:まるで、恋だな。
海里:……だから、分かりません。貴方が想像の扉を閉ざしてしまったなんて、信じられません。
砂霧:自分のことは、自分が一番よく分かっているつもりだよ。
海里:そうかもしれませんけど。
砂霧:……
海里:そうかも、しれませんけど。
砂霧:書けないんだ。
海里:なぜ。
砂霧:……恋だったんだよ、僕にも。
海里:……
砂霧:三年、四年……もうどれくらい経ったか。夢中だったんだな。覚えていない。
海里:……
砂霧:前の妻と別れてから、一人で悠を育ててきた。その当時の僕はまだ作家でもなんでもない、ただの会社員で、毎日悠を育てるためだけに生きていた。
海里:聞いても。いいですか。
砂霧:なんだい。
海里:前の奥様とは、どうして……?
砂霧:……逃げられた。
海里:え。
砂霧:好きな男ができたのだと、そう言って僕と悠のもとを去っていったよ。
海里:……余計なことを、聞いてしまいましたね。すみません。
砂霧:いいや、いいんだ。……どうやら僕は、捨てたくなるタイプの男なんだろうね。
海里:そんな
砂霧:話を、戻してもいいかな。
海里:……はい。
砂霧:……世界が閉じていた。その当時の僕の世界には、僕と悠しかいなかった。僕は僕ではなく、「悠の父親」としてだけ生きていた。僕の世界は、僕のものではなかった。
海里:……
砂霧:勘違いしないでくれよ。それでもちゃんと、僕は幸せだったんだ。
海里:ええ。
砂霧:ある日、悠を保育園に迎えに行ったとき――あれは、冬だったかな、すっかり日が落ちて暗くなった空を指して、悠が言ったんだ。「パパ、お空が綺麗ね」って。
海里:それも……小説と同じですね。
砂霧:ああ。……空が好きな子でね。今でもよくそうやって、僕に空を見せようとする。面白いもので、どんよりとした曇り空や雨空でも、悠は「綺麗ね」と言う。子供ってのは、すごいね。
海里:……ええ、本当に。
砂霧:とにかく、その時が初めてだったんだ。悠が明確に、僕に空を見せようとしたのは。
海里:……
砂霧:……細い細い三日月が、夜空で微笑んでいた。その傍らに、星がひとつだけ、ぽつんと光っていた。綺麗だった。本当に、綺麗だった。
海里:貴方の作品に空がよく出てくるのは、悠ちゃんの影響だったんですね。
砂霧:ああ。
海里:それが、きっかけだったんですか。
砂霧:きっと同じような夜空は、これまでにも僕たちの頭上にあったんだ。だけど僕はその瞬間に、僕自身を、悠の父親ではない僕自身が「確かにここ」に「居る」と感じたんだ。
海里:……そして貴方は、「砂霧要」になった。
砂霧:誰にも知られることのない僕自身が「ここ」に「居る」のだと、叫びたくなった。それは慟哭でもあり、同時に歓喜の叫びでもあった。その手段が、文字だったというだけの話さ。
海里:砂霧要の、「そこ」に「生きる」人間への徹底した肯定の眼差しは、貴方自身が「そこ」に「生きている」ことの証明だったんですね。
砂霧:そういうことに、なるのかな。
海里:分からないんですか。
砂霧:さっき、自分のことは自分が一番よく分かっている、と言ったけど、「作家 砂霧要」に関してだけは、僕が一番無知だと思うよ。僕は僕が「砂霧要」として「ここ」に「居る」ということ以外、何も知らないから。
海里:そんな、ものですか。
砂霧:少なくとも、僕はね。
海里:……
砂霧:仕事と家事と育児の合間に、それこそ寝る間も惜しんで、書いて書いて書きまくった。堰を切って溢れ出した僕の世界を、書き留め続けた。
海里:……貴方が、私たちのことなんて見ていない理由が、ようやく分かりました。貴方は、自分を世界に証明したかったわけじゃない。自分だけに、証明し続けていたんですね。
砂霧:……
海里:話の続きを、お願いしても?
(少しの間)
砂霧:妻と出会ったのは、自分が書いたものを戯れにインターネットに公開し始めた頃だった。なんとなく自分と同じような世界を見ている人間がいるのか、気になってね。
海里:はい。
砂霧:二年ほど経った頃だったかな。ぽつぽつとオンラインでの交流が増えたことで作ったSNSのアカウントに、コメントをくれたのが、彼女だった。
海里:……どんなコメントを?
砂霧:「大好きです」。
海里:え?
砂霧:「貴方の作品が、大好きです」とだけ。
海里:それで、貴方は?
砂霧:ただ、「ありがとう」と。
海里:それだけ?
砂霧:それ以外に、どう返せばいい?
海里:すみません、後の奥様だと思うと、つい。
砂霧:君のそういうところ、僕は結構好きだよ。
海里:え?
砂霧:シンプルで、裏表がない。
海里:それは……「考え無し」ってことなんじゃ?
砂霧:そんなつもりはないよ。
海里:そうでしょうか。
(少しの間)
砂霧:……縁があって――そして、悠のためにもう少し収入が欲しいという理由だけで、作家としてデビューした。なんとも運のいいことに、あっという間に、サラリーマン時代よりもいい給料を貰えるようにもなった。名前が売れてゆくごとに、周りにはいろんな人間が増えていった。
海里:……それで?
砂霧:それがどうしたことか、僕が「ここ」に「居る」ことを知ってくれる人間が増えたというのに、何故だか僕は、ちっとも嬉しくなかったんだ。
海里:それは、どうしてですか?
砂霧:身勝手な話さ。「僕」の存在を見ている人が、実際にどれほどいるんだろう。どいつもこいつも、「砂霧要」を自分のアクセサリとして見ているばっかりじゃないか。そんな風に、思うようになっていたんだよ。一つの孤独が満たされたら、別の孤独が静かに唸り始めた。
海里:……
砂霧:もちろん、そうでないと分かる人間もいた。君のような、ね。
海里:そう、ですか。
砂霧:だから、そんな人たちの存在が、僕には有難かった。
海里:奥様も、そのひとりだったんですね。いいえ、特別有難い人だったんですね。
砂霧:……ああ。
海里:だから、恋。
砂霧:感謝と恋のどちらが先だったのか、僕にも分からない。ただ、インターネットの隅っこで、衝動のまま自分の見たものを書き散らしていた頃から、彼女は僕に「大好きだ」と伝え続けてくれていた。
海里:……
砂霧:彼女も、君が僕の作品を評するときと同じようなことを、いつも言っていたっけ。
海里:そう、でしたか。
砂霧:いつしか、僕はなにかを書くたび、彼女の感想を楽しみに待つようになっていた。文字でのやり取りが、音声でのやり取りになり、そしてオフラインで会うようになるまで、そう時間はかからなかったよ。
海里:……前の奥様のことや、悠ちゃんのことは?
砂霧:はじめてオフラインで会ったときに、話した。
海里:それで、奥様は?
砂霧:笑わないで聞いてくれよ。今思えばあまりにも……僕は単純だったから。
海里:笑いませんよ。
砂霧:「これまで貴方がすごくすごく頑張ってこられたこと、そして、そんな環境のなかでも沢山の素敵な世界を見せてくれたこと、全部全部尊敬します」「私は何もしていなかった。こんなにも貴方がたくさん頑張っているときに、何も」「今すごく、私は貴方に何かをしたくなりました。何をしていいのか、分からないけれど」「ただとにかく分かることは、私は貴方が大好きです。作家としてだけでなく、一人の男性として」。
海里:それで、貴方は恋をしたんですね。
砂霧:「何もしなくていいです。このまま、僕のそばにいてください」。泣きじゃくる彼女に、僕はそう返した。
海里:砂霧要と貴方の両方を愛して、尊敬してくれたから。
砂霧:ね、単純だろう?
海里:いいえ。
砂霧:……
海里:いいえ。
(少しの間)
砂霧:……僕がデビューを果たし、一人歩きし続ける「砂霧要」とのギャップに苦しみ始めた時も、彼女は変わらなかった。変わらず砂霧要と僕を、時に別物として、時に同一人物として、愛してくれた。
海里:悠ちゃんのことも?
砂霧:僕の娘だから、ではなく、純粋にひとりの人間として愛おしいと、言っていたよ。それは、嘘じゃないと思った。見ているだけで、そうと分かるくらいには。
海里:……
砂霧:この人だと思った。僕もまた、彼女を愛していると同時に、尊敬していた。砂霧要も僕も、この人と共に在ろうと思った。そうすればきっと、僕の世界は、もっと素晴らしい世界に繋がるに違いない。
海里:素晴らしい世界は、見えましたか。
砂霧:ああ。それからの僕は、以前にも増して精力的に書いた。彼女に読ませたい、そして僕の世界をひろげ、共有したい、その一心で。いつしか、僕のための「砂霧要」は、僕と、彼女のための「砂霧要」になっていた。
海里:貴方の瞳は、ちゃんと別の方(ほう)も向けたんですね。
砂霧:どちらかというと、僕の見ている世界に彼女を引っ張り込んで、共に静かに眺めている感覚だったけれどね。そうだ、君が僕の担当になったのも、確かその頃だった。
海里:……愛して、いらしたんですね。
砂霧:愛していたよ。
海里:……
砂霧:いいや。
海里:え?
砂霧:愛している。今も。
海里:だから、書けない。そういうことですか?
砂霧:まだ、納得できない?
海里:砂霧要は、そんな悲しみさえも徹底的に見据え、やがて美しいものに変えて昇華するタイプだと、思っていますから。
砂霧:……
海里:というより、私がそう、信じたいんです。
砂霧:君は本当に、彼女と同じことを言うんだな。
海里:正直、あまりうれしくないです。
砂霧:そうか。
海里:私は、貴方のファンなので。今貴方を、死にたくなるほど苦しめている奥様に対しては、複雑な心境です。
砂霧:手厳しいな。
海里:……貴方の、ファンなので。
砂霧:……
海里:……
(少しの間)
(いつしか外からは雨の音)
砂霧:雨が、降ってきたな。
海里:そのようですね。
砂霧:レインコートと傘を持って、悠を学校まで迎えに行ってやらないといけないな。午前中は晴れていたから、油断していた。
海里:殺して欲しい人間の、言う言葉ですか。
砂霧:分かっているんだろう? もう。
海里:……どうでしょう。
砂霧:僕が殺して欲しいのは、「作家 砂霧要」だと。
海里:……
(少しの間)
砂霧:……持って行かなかったんだ。
海里:え?
砂霧:妻は、全て置いていったんだ。
海里:何を?
砂霧:僕の、本を。
海里:……
砂霧:デビュー前の僕の作品をプリントアウトしたものも、僕がサインを入れてプレゼントした本も、全て、置いて行ったんだ。
海里:それも、作品と同じ、ですね。作品では、主人公が撮りためた写真、でしたけれど。
砂霧:これではっきり分かっただろう?僕が書けないといった理由が。殺して欲しい理由が。
海里:……
砂霧:この部屋にある彼女のものは全て、生きた抜け殻だ。抜け殻なのに、生きている。置いて行かれた僕の本も、すべて。
海里:先生。
砂霧:……書けない。書けないんだ。書こうとも、もう思えない。
海里:……先生。
砂霧:……殺してくれ。
(海里、とっさに砂霧の傍らに寄り、砂霧を抱きしめる)
(身動きひとつしない砂霧)
砂霧:離してくれ。
海里:いやです。抱きしめさせてください。
砂霧:殺してくれ……
(砂霧、声を上げて泣き始める)
(雨はどんどんと強くなる)
【間】
(泣きつかれ、ぐったりとした砂霧と、そんな砂霧を抱きしめたままの海里)
砂霧:この作品は、出版しなくていい。完全なる恨み言で、完全なる駄作だから。
海里:……「遺書」ですからね。
砂霧:ああ。
海里:主人公が夫を愛した「妻」の自分を捨て、ソネットの「遺書」を残し「母親」として家を出たように、貴方は今、奥様を愛した、そして奥様に愛された「砂霧要」と「自分」を捨て、悠ちゃんと二人だけの世界に戻るために、父親としての自分をせめて守るために、この「遺書」を書いた。
砂霧:望みすぎたんだ。悠がいれば、よかったはずなのに。そして自分のためだけに、それこそ余所見などせずに書いていれば、よかったはずだったのに。
海里:恋って、そういうものだと思います。勝手に落ちるもの、そうでしょう?
砂霧:だとしても、いい大人が情けないよ。
海里:……大丈夫ですよ。
砂霧:大丈夫なもんか。
海里:貴方の作品に出てきた恋する人間たちは、みんな情けなかったです。情けなくて、ずるくて、面倒くさくて。でもそれが、私を安心させました。それでいいんだ、って、思わせてくれました。
砂霧:……
海里:だから、私は今、情けなくなった貴方に言います。……いいですよ、それで。
砂霧:……
海里:大丈夫です。
(砂霧、大きく息を吐く)
海里:これで、私は貴方を殺せますか?
砂霧:ああ、じゅうぶんだ。
海里:……よかった。
砂霧:なにもかも、君に甘えてしまったね。すまない。
海里:ファン冥利に尽きますよ。私に何か、尊敬する貴方のためにできることがあって、本当に良かった。
砂霧:そうか。
海里:はい。
砂霧:……そうか。
海里:……はい。
(少しの間)
海里:でも、これだけは言わせてください。
砂霧:なんだい。
海里:砂霧要が死んでも、私は生まれ変わった「貴方」を信じ、想います。
砂霧:また、書けと?
海里:いいえ。私はただ、待つだけです。
砂霧:何が違うんだい。
海里:貴方がまた、悠ちゃんと空を見て、書きたくなったら書けばいい。別に書かなくたっていい。貴方が「砂霧要」でも、別の誰かでも、いい。私はただ、自分が空を見上げた時に、同じ空の下の「そこ」に「居る」貴方が、また新たな言葉を生み出しているのかもしれないと思い、胸を躍らせるだけです。
砂霧:……本当に、まるで、恋だな。
海里:ファンというのは、時に恋人より情熱的なものですよ。
砂霧:そうか……。
(海里、そっと砂霧から離れる)
海里:もうそろそろ、学校に悠ちゃんを迎えにいかなければいけない時間なんじゃないですか?
砂霧:ああ、本当だ。
海里:悠ちゃん、早く気持ちが落ち着くといいですね。
砂霧:頑張るよ。
海里:無理だけは、なさらないでくださいね。
砂霧:ああ。
海里:それじゃあ。
砂霧:ああ、待って。
海里:はい。
(海里、机の上に置きっぱなしになっていた原稿用紙の束を海里に渡す)
砂霧:これ。
海里:え?
砂霧:この「遺書」は、君に。
海里:……
砂霧:僕を殺してくれた君に、預ける。駄作だけれど、これをどうするかは、君に任せるよ。
海里:……分かりました。では、「砂霧要」先生。
砂霧:うん。
海里:安心して、死んでください。
砂霧:ありがとう。
(海里、退場)
(少しの間)
砂霧:子の指さす先の空に 雲がうねっていた
あれはおさかなだと 子は無邪気に笑う
子が指をさしただけで 空は海になり 雲は魚になった
どうしてこんな奇跡の瞬間に あなたはいないのだろう
風が吹き うねる白い大魚(たいぎょ)がわたしに迫る
大魚は大きく口を開け この口の端(は)から零れた嘆きの泡を ぞぶりと飲み込んだ
あなたへの言葉は 空へとまた帰る大魚の口の中で 空に溶けてゆく
空の彼方に消えたということは あれは死んでしまったということになるのだろうか
それなら今 わたしとこの子が地平線の向こうに駆けたなら
やはりそれも 死んでしまったことになるのだろうか
わたしもこの子も わたしのなかのあなたも みんな死んでしまったことになるのだろうか
嗚呼試しにこのまま 大魚の起こした衝撃のまま 駆けてみようかしら
地平線の向こうで夕日とともに死に 朝日とともに蘇ってみようかしら
わたしの右手にすっぽりと包まれたちいさな左手の その温度を確かめながら
(砂霧要著「遺書」より抜粋)
(砂霧、ふっと息を吐く)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【幕】