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​​#50「遠雷に、蝉時雨。」 

(♂1:♀1:不問0)上演時間20~30


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【山井周(やまいあまね)】男性

香苗の昔の恋人。バツイチ。

 

香苗

【小折香苗(こおりかなえ)】女性

周の昔の恋人。バツイチ。

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―周の部屋

 

(テーブルを挟んで香苗と周が向かい合って座っている)

 

香苗:あ、雷。

 

周:え?

 

香苗:ほら、遠くで。

 

周:……本当だ。

 

香苗:雨、降るのかな。

 

周:多分な。

 

香苗:家に帰るまで、お天気がもつといいんだけど。

 

周:難しいんじゃないか。空も結構暗くなってきてるし、少し冷えてきた。

 

香苗:やっぱり?

 

周:ま、天気が落ち着くまで、ここにいればいいだろ。

 

香苗:いいの?

 

周:どのみち、香苗は今来たばっかりで、まだ何も話は始まっていないんだし。

 

香苗:それもそっか。

 

周:この季節だ。降るっていったって、どうせ一時間程度の通り雨で、話が終わる頃にはやむだろ。

 

香苗:ん。

 

周:コーヒー、淹れるわ。

 

香苗:ありがとう。

 

(周、席を外す)

(少しの間)

(周、コーヒーカップを手にテーブルに戻ってくる)

 

周:お待たせ。

 

香苗:いただきます。

 

周:……

 

香苗:……

 

周:……遠雷(えんらい)っていうんだっけ。

 

香苗:なにが?

 

周:雷。今鳴ってるみたいなやつ。

 

香苗:ああ、「遠くの雷」で「遠雷」?

 

周:そう。

 

香苗:「遠雷」、か。

 

周:どうした?

 

香苗:ん?

 

周:思うところがあるって顔、してるから。

 

香苗:そっちはそっちで、「お見通し」って顔してる。

 

周:一応、「元」恋人だからな。

 

香苗:そうね。

 

周:聞いてもいいやつ?

 

香苗:その、思うところを?

 

周:元恋人ったって、今は他人なわけだし。他人の方が気楽に話せることもあるだろ。

 

香苗:そんな簡単には切り替えられないって。

 

周:……そうか。

 

香苗:一回深入りしちゃった関係を「それはそれ」と置いておけるほど、私器用じゃないよ。

 

周:だよな。知ってる。

 

香苗:元恋人、だもんね。

 

周:……

 

(少しの間)

 

香苗:何年経ったっけ、別れてから。

 

周:五年?

 

香苗:まだそれくらいかあ。

 

周:いや、七年?六年だったかも。

 

香苗:どっちでもいいよ、そこは。誤差の範囲でしょ。

 

周:そうか。

 

香苗:うん。

 

周:……で?

 

香苗:なに?

 

周:「思うところ」の話。

 

香苗:ああ……

 

周:別に、言いたくないなら言わなくてもいいけど。

 

(少しの間)

 

香苗:少し、ずれるかもしれないんだけど。

 

周:……

 

香苗:あの時周はさ、私のこと嫌いになった?

 

周:あの時ってなに。

 

香苗:私が周に、「別れよう」って言った日。

 

周:ああ、そういうこと。

 

香苗:私、結構一方的に別れを告げたじゃない?理由も言わずに。

 

周:そうだったな。

 

香苗:だから、どうだったのかな、って。

 

周:覚えてない。

 

香苗:そっか。

 

周:通り過ぎた過去の話なんて、いちいち覚えてないだろ。

 

香苗:だからなの?

 

周:何が。

 

香苗:今こうして私を家に入れて、しかもコーヒーまで淹れてくれた。

 

周:そりゃ客だから。

 

香苗:他人同士だし?

 

周:……そうだな。

 

香苗:そうだよね。

 

周:ああ。

 

香苗:でも「元恋人」の「他人」なら、そうしない選択肢だってあったんだろうから、きっと周は……やっぱり優しいんだと思うよ。

 

周:大人だから、ってだけだよ。勝手に美化すんな。変に気まずくなる。

 

香苗:ごめん。

 

(少しの間)

 

周:……ひとつ思い出した。

 

香苗:なに?

 

周:俺が自覚無しに、香苗のなかの俺の評価を下げ続けたんだろうな、って思った。

 

香苗:それで、こっちがびっくりするくらいあっさり別れてくれたんだ。

 

周:見栄もあるけどな。縋るのは、なんかカッコ悪いだろ。

 

香苗:カッコつけだったからなあ、周は。

 

周:大きなお世話だ。

 

香苗:ごめんごめん。

 

周:……まあ、縋るつもりはなかったけど。

 

香苗:そっか。

 

周:理由が気になったのは事実だな。

 

香苗:ん。

 

周:それなりに、うまくいってると思ってたから。

 

香苗:うん、うまくいってた。

 

周:だから正直、今でもよく分かってない。今日この瞬間まで気にしたこともなかったけど。五年だか七年だかぶりに元恋人が連絡してくるなんて、思わないしな。

 

香苗:だよね。

 

周:でも、今聞くことでもないから。やっぱりどうでもいい。

 

香苗:今更だからね。

 

周:ああ。

 

香苗:……

 

周:……

 

香苗:雷、少し近付いたね。

 

周:土砂降りになるかもな。

 

香苗:そうだね。

 

周:で?

 

香苗:ん?

 

周:いい加減本題に入れって。一体何の用で、他人だとは割り切れない元恋人の家まで来たんだよ。

 

香苗:……

 

(少しの間)

 

香苗:こないだね、離婚したの。

 

周:結婚してたのか。

 

香苗:知らなかったんだ。

 

周:別れた女のその後をわざわざ教えてくるような友達なんて、俺にはいないからな。

 

香苗:そっか。

 

周:ああ。

 

香苗:……不倫。

 

周:香苗が?

 

香苗:ばか。元旦那が、よ。

 

周:ああ、そっち。

 

香苗:うん。

 

周:……大変だったんだな。

 

香苗:それなりにはね。でも、あんまり悲しくはなかったの。

 

周:そうか。

 

香苗:そうなるよなあ、って思っただけで。

 

周:冷めてたのか。

 

香苗:ううん、普通。熱くもなかったけど、冷めてもいなかった。そんなもんでしょ、居心地のいい関係なんて。

 

周:あの頃の、俺たちみたいな?

 

香苗:まあ、そんな感じ。

 

周:でもやっぱり、裏切りは裏切りだろ?

 

香苗:そうなんだけどね。怒りも悲しみも、本当にそんなになかったの。むしろ、居心地のいい関係だと思っていたのは私だけだったんだ、ってしみじみしちゃって。

 

周:……

 

香苗:そういえば彼はドラマティックなのが好きな人だった。映画でも音楽でも、日常でも。とにかく毎日をドラマにしたがった。だから、そうなるよなあ、って。

 

周:刺激が欲しかった、みたいな?

 

香苗:多分。だから別れ際でさえも、なんだか温度差がすごくって。

 

周:温度差?

 

香苗:私はしみじみしているだけなのに、彼は号泣してるんだもん。「彼女には俺しかいないんだ」なんて、安いドラマでしか聞かないような台詞を言いながら、さ。

 

周:それは……

 

香苗:ね?笑っちゃうでしょ?

 

周:笑いはしないけど、ただなんか、すげえな、って。

 

香苗:同じ場所にいると思ってたけど、びっくりするくらい違う世界を見ていたんだな、って思った。

 

周:そうか。

 

香苗:彼女には自分しかいないってことは、私には別の誰かがいるように見えたのかな。

 

周:まあ、そう取れるな。

 

香苗:そんなこと、なかったのにね。

 

周:……

 

香苗:私なりに、ちゃんと幸せは感じていたんだけど。

 

周:違う世界を見てたんだ。幸せの定義がずれてたんだろ。

 

香苗:熱くもないけど冷たくもないって、一番安心で幸せだと思ってたんだけどな。

 

周:ぬるま湯ってやつか。

 

香苗:そう。

 

周:でも、それを嫌う奴は多いよ、実際。

 

香苗:ね。不思議。

 

周:そうか?

 

香苗:どういうこと?

 

周:あの時の香苗も、そうだったんじゃないのか?

 

香苗:……

 

周:いやまあ、ただの憶測だけど。それなりに上手くいってたのに急に「別れよう」なんて、それくらいしか思いつかねえな、って。

 

香苗:全然違うよ。

 

周:そうか。

 

香苗:うん、全然違う。初めからぬるま湯なのと、熱いお湯にせっせと水を入れてぬるま湯にするのとじゃ、ワケが違う。

 

周:なんだそれ。

 

香苗:……私ね、周のことがすごく好きだった。なんなら、別れを告げたその瞬間も。

 

周:今更になってすごいこと言うのな。

 

香苗:でもこの恋は、深海に沈んでゆくような恋だなって、思ってたの。

 

周:深海?

 

香苗:好きでいればいるほど、自分の世界が、狭くなっていくのを感じたの。視界がどんどん暗くなっていって、自分の質量に引っ張られて、ただただ息苦しくて。

 

周:……

 

香苗:それがすごく嫌だった。

 

周:それで別れようって?

 

香苗:うん。

 

周:勝手過ぎるだろ。

 

香苗:私もそう思う。それを周にぶつけていたらまた違った形になったかもしれないのに、そうすることもせずに、自己完結してのそれだもんね。

 

周:本当にな。

 

香苗:だから、ごめん。本当に、今更だけど。

 

周:ああ。

 

香苗:最初からぬるま湯で培養された恋なら、幸せになれると思った。実際幸せだった。でも、それでも駄目だった。難しいね。

 

周:……そうだな。

(少しの間)

 

香苗:……ごめんね。

 

周:もういいって。

 

香苗:ううん。これは、もうひとつの「ごめん」。

 

周:もうひとつ?

 

香苗:それが、今日私がここに来た理由。ほんとうの、本題。

 

周:離婚したことを報告しにきたんじゃないのか。

 

香苗:そんなわけないでしょ。それに何の意味があるのよ。

 

周:まあそりゃあ、変だとは思ったけど。

 

香苗:……やっぱり、知らなかったんだね。

 

周:なにを。

 

香苗:……

 

周:なあ、まさかとは思うけど……

 

香苗:……

 

周:嘘だろ。

 

香苗:そうだったら良かったよね、本当に。

 

周:だって、そんな冗談みたいなこと、あるか?

 

香苗:私もそう思った。……周の元奥さんが、私の元旦那の不倫相手だったなんて、ね。

 

(少しの間)

 

周:……だから、俺に連絡してきたのか。

 

香苗:そういうこと。別にそんなこと知りたくもなかっただろうし、私に謝られたくもなかったろうけど。

 

周:そもそも、香苗が謝ることか、これ。

 

香苗:そうかもしれない。でも、なんとなく放っておけなかったから。

 

周:……

 

香苗:……虫が、良過ぎるかもしれないけど。

 

周:いきなりヒロイン面して、そっちのドラマに巻き込むなよ。

 

香苗:だよね。

 

(少しの間)

 

周:周りからは、きちんと相手を確認して取るものを取れって言われた。

 

香苗:うん。

 

周:ただ……なんだか面倒くさかった。なにもかもが、面倒くさかった。

 

香苗:私の時みたいな矜持(きょうじ)、とかじゃなくて?

 

周:もう若くないんだ。そんなものを振りかざせる体力なんかない。

 

香苗:そっか。

 

周:怒りの感情が全くなかったわけではないんだ。けどそれ以上に、面倒くさかったんだよ、本当に、すごく。だから、彼女に言われるがまま離婚届に判を押して、出ていく背中を見送った。それだけだ。

 

香苗:……そう。

 

周:今も正直、何もかもが面倒くさいと思ってる。

 

香苗:こんな状況、面倒くさい以外の何物でもないよね。

 

周:ああ。

 

香苗:ごめん。

 

周:香苗は?

 

香苗:私?

 

周:慰謝料とか。

 

香苗:一応、ね。こっちが何も言っていないのに、彼が泣きながら押し付けてきたの。周の元奥さんの分も含まれていたかは、知らないけど。

 

周:そうか。

 

香苗:そもそも子供もいなかったし、共働きでお金にも困っていなかったから、別にもらってももらわなくても、どっちでも良かった。だから聞かなかった。

 

周:……泣きながら、ね。

 

香苗:ドラマティック、でしょ?

 

周:……

 

香苗:本当に、ひどく安っぽいけど。

 

周:世の中の人間の抱えるドラマなんて、周りから見れば、大半は取るに足らないような安っぽいもんだろ。

 

香苗:そうかもね。

 

周:それでもそれに翻弄された、って事実だけが、真実だ。

 

香苗:うん。

 

周:コーヒー、お替りいるか?

 

(周、立ち上がる)

 

香苗:それでも私は。

 

周:……

 

香苗:安っぽかろうがなんだろうが、それでも私は、ドラマなんて要らなかった。あの時みたいに翻弄されて勝手に沈んでゆくのは、絶対嫌だった。

 

周:それで「ぬるま湯」か。

 

香苗:でもぬるま湯なんかじゃなかった。本当に、難しいね。

 

(少しの間)

 

周:……俺も、ぬるま湯に浸かってたってことになるのかもしれないな。

 

香苗:え?

 

周:あの時も、今も。

 

香苗:今も?

 

周:波が起きるたび、そいつの影響を受けないようなところに、ぬるくて安全なところにひっそりと移動して、翻弄されないようにやり過ごしてる。

 

香苗:私が深海に沈まないようにしたみたいに?

 

周:やり方は、違うけどな。

 

香苗:うん。

 

周:結局俺は、お前と別れた時からなんにも進歩していないってことになるな。そりゃ誰とも続かないわけだ。

 

香苗:そんなことは

 

周:あるだろ。言ったろ?起こったことだけが、真実だ。

 

香苗:……

 

周:ださいよな。

 

香苗:そんなことないよ。

 

周:面倒くさいんだよ、本当に。何もかも。

 

香苗:周……

 

周:面倒くさすぎて嫌になる。

 

香苗:ごめん。

 

周:なあ、それなんだけど。

 

香苗:え?

 

周:なんでさっきから謝ってんの?

 

香苗:だって、私の元の旦那が……

 

周:だからそれ、別に香苗が謝ることじゃないって言っただろ。

 

香苗:でも……

 

(周、香苗の腕をつかむ)

 

香苗:周?

 

周:そういうのも、面倒くさいんだよ。

 

香苗:手を、放して。

 

周:香苗は、どうしてわざわざ自分の責任でもないことのために俺を訪ねてきたわけ?

 

香苗:だからそれは

 

周:なんとなくほっとけなかったから、だったか。

 

香苗:……

 

周:他人とも割り切れない元恋人をほっとけなくて、わざわざ余計なことを知らせに――俺に波風を立てに来たのか。

 

香苗:違うよ。

 

周:結果だけ見れば同じだろ。

 

(周、香苗を抱き寄せて口づける)

(香苗、とっさに周を振りほどこうとする)

 

香苗:周!

 

(周、香苗をさらにきつく抱き寄せる)

 

周:そうして俺に「あの時は本当に苦しかった。お前を本当に愛していたから」とでも言わせたかったか。

 

香苗:え?

 

周:それで僅かな自信を取り戻して、ぬるま湯に戻ろうとしたのか。

 

香苗:待って。

 

周:あくまで「元」恋人と、全て過去形にして線を引いて、自分は二度と深海に沈まないように予防線を張って、傷の舐め合いをしたかったんだろ。

 

香苗:ねえ

 

周:そういうことなんだろ。

 

香苗:やめて!

 

(香苗、周を振りほどく)

 

香苗:本当に、そんなつもりはなかったの。でも、そう思わせても仕方ないことをしたんだ、ってやっと自覚した。ごめん。もう帰る。

 

周:この雷の中をか?

 

香苗:それでも帰る。周、今日は本当にごめん。

 

周:だから

 

香苗:ごめん。

 

周:ああもう、本当にめんどくせえ……っ!

 

(周、もう一度香苗を抱き寄せ、押し倒す)

 

香苗:周!

 

周:またそうやって勝手に波風立てる。

 

香苗:周!

 

周:勝手に自己完結して……

 

香苗:やめてよ!

 

周:ひとりでぬるま湯に戻ろうとしてんじゃねえよ!

 

香苗:……っ!

 

周:本当に、本当にめんどくせぇな……!

 

香苗:やめてってば!

 

(香苗、周の頬を張る)

(少しの間)

 

香苗:はぁ……はぁ……はぁ……

 

周:……っ、いってぇ……。

 

香苗:周が、つまらないことするからでしょ。

 

周:……つまらないこと、か。

 

香苗:でもそれは私もだから、本当は周のことを責める資格なんてないんだけど。

 

周:……

 

(少しの間)

 

香苗:ごめん。

 

周:もう聞き飽きた。

 

香苗:言わせて。謝らないと、いよいよ自分がみっともなくて死にたくなる。

 

周:……好きにしろよ。

 

香苗:ありがと。

 

周:死なれるよりは、いいってだけだ。

 

香苗:……遠雷。

 

周:は?

 

香苗:周は、遠雷だと思った。

 

周:なにそれ。

 

香苗:不倫相手が周の奥さんだった人だと知って、何度も周のことを思い出した。ぬるま湯に浸かっているのが正解だって理解しながら、自分だけが深海に落ちゆくようなあの日の恋を思い出した。遠くで常に、別れを受け入れた周の、「分かった」って声が響いてた。

 

周:……

 

香苗:もしかしたら周は、一緒に深海に沈んでくれた人だったのかもしれない。深海に適応して、そのひんやりとした真っ暗な世界を、ぬるま湯に変えてくれた人だったのかもしれない。そんな都合のいいことばかりを考えた。ここに来るまでの間、予感のように、考え続けた。

 

周:それは本当に、都合が良過ぎるだろ。

 

香苗:離婚をしたことは大して悲しくないはずなのに、なんだかすごく虚しくて、何が正解で、何が間違いだったのかを、はっきりさせたかったの。そうすれば、少し楽になるような気がしたから。

 

周:……なんだよ、俺が言ったこと、大して間違ってなかったんじゃないか。

 

香苗:そうだよ。だから今、すごく恥ずかしくて死にたいの。

 

周:そんなことで死ぬなよ。馬鹿らしい。

 

香苗:死にたいけど、死なないよ。それこそ、安いドラマみたいになっちゃうじゃない。そういうの、もう嫌だって言ったでしょ。

 

周:そうだな。

 

香苗:だから、ごめん。

 

周:ああ。

 

(少しの間)

 

周:……俺は、やっぱり今も面倒くさいと思ってる。

 

香苗:うん。

 

周:面倒くさい全てはすっぱりと切り離す。それでいいんだ。切り離してしまえば、それは傷跡ではなく、ただの過去の事象になる。だから今も、本当はお前を外に放り出して切り離したい。

 

香苗:じゃあどうしてそうしなかったの。

 

周:さあ。

 

香苗:……

 

周:面倒くさいと切り離すことが、面倒くさくなったのかもしれない。

 

香苗:……そう。

 

周:何も残らないからな。

 

香苗:うん。

 

周:別に何も残らなかったからって、悲しくはない。自分が選んだことだからな。ただ……

 

香苗:ただ?

 

周:虚しい。

 

香苗:うん。

 

周:あと、さみしい。

 

香苗:うん。

 

周:でも、押し倒すのは違ったわ。

 

香苗:だよね。

 

周:すまん。

 

香苗:お互い様だよ。

 

周:……そうだな。

 

(少しの間)

 

香苗:雷、いよいよ近付いてきたね。

 

周:ああ。

 

香苗:なんだか不思議。

 

周:なにが。

 

香苗:蝉の声がする

周:蝉?

香苗:うん。外はすっかり暗くて、雷も鳴っていて、空気だってひんやりしてきたのに、蝉だけは、晴れてた時と同じようにみんみん鳴いてて。

 

周:何も気付かずに取り残されたのか、それとも、それでも鳴くのをやめられずにいるのか、どっちだろうな。

 

香苗:わかんない。

 

周:……

 

香苗:でも。

 

周:ん?

 

香苗:今は、抗えないんだと思いたい。「生きる」って本能に、抗えないだけなんだって。

 

周:ドラマティックだな。

 

香苗:やめてよ。

 

周:悪い。

 

香苗:蝉時雨、だっけ?

 

周:ああ。

 

香苗:同じ打たれるなら、通り雨より蝉時雨の方がいいなあ。

 

周:そうか。

 

香苗:冷たいのは、嫌だもの。それに蝉時雨の方が、「生きてる」って感じがして、温度を感じるから。

 

周:あいつら、一週間で死ぬぞ。

 

香苗:だからだよ。私たちにはその一週間の命がなんとなくドラマティックに見えるけど、蝉たちにはそんなの全く関係なくて、ただ本能だけで生きて、鳴いてる。余計なことなんか、考えずに、さ。

 

周:……

 

香苗:なんだか恋を始めたばかりの恋人たちみたいでいいな、って。

 

周:……言っておくけど、傷の舐め合いはしないからな。

 

香苗:別にそんなの欲しくないよ。

 

(少しの間)

 

周:……あの時

 

香苗:ん?

 

周:本当はすごく悲しかった。

 

香苗:……ここに来てその台詞は、いくらなんでもずる過ぎない?

 

周:でも、欲しかった台詞だろ。

 

香苗:今はそうでもない。

 

周:ま、変な意図はねえよ。切り離してしまった事象だから言えるってだけだ。

 

香苗:そう。

 

周:……あの時、「別れよう」って言われたあの一瞬で一気に寒くなった。深海に沈んだとは、今も思っちゃいない。だけど、寒かった。

 

香苗:……

 

周:今も、寒いけど。

 

香苗:……傷の舐め合いは、しないからね。

 

周:気温が下がってきて寒いってだけだよ。馬鹿。

 

香苗:むかつく。

 

周:なんとでも言え。

 

香苗:……あ。

 

周:ん?

 

香苗:雨、降ってきたね。

 

周:ああ。

 

香苗:雷も……すごいね。

 

周:怖いか?

 

香苗:平気。

 

周:そうか。

 

(少しの間)

 

周:ここは、水深何メートルくらいなんだろうな。

 

香苗:……

 

周:寒いし暗いけど、生きていけない水温でもない。

 

香苗:今の私たちにとっては、これくらいが住みやすいのかもよ。

 

周:少しは進化したのかね、俺らも。

 

香苗:これって進化って言っていいのかな。明らかに私たち、昔よりもみっともないんだけど。

 

周:今くらいは、進化ってことにしといてくれ。

 

香苗:今だけね。

 

周:それでいい。

 

香苗:……ねえ。

 

周:ん?

 

香苗:コーヒー、飲みたい。

 

周:あったかいの、淹れてやるよ。

 

香苗:ありがと。


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【幕】

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